ピンチをチャンスに変える力を!

ジェンダー学習会 木村 昭子

 ようやくジェンダーのメインストリーム化が日本でも、と期待を集めた「男女共同参画社会基本法」の成立・施行と同じ年、高知では遅ればせながら女性センターが開館した。全国的に大きく遅れをとった女性センター開設だが、いうならば満を持しての建設・オープン、高知の女性たちの「思い」の集大成とでもいうべきものであった。

 高知市に女性センターを!という女性達の3万人署名等の運動が実り、1992年(平成5年)、県市合同設置という全国でも類を見ない形ではあるが、女性センター建設が決定した。この運動に深く関わってきた我々「女性センターを育てる会」は、「設計・運営について提言をさせて欲しい。基本設計・実施設計決定前に提示して欲しい」旨の要望書を持って県知事・高知市長と会見した。席上、その時まだ新進気鋭だった橋本大二郎知事が言った。「だったら最初から、行政・業者・皆さんの3者で一緒に協議をしていきましょう」と。公的な施設建設の設計段階から利用者が参加するのは特筆すべき画期的なこと、少なくとも、女性センター建設では全国でも初めてのケースであろうと思う。

 知事の大英断によって3者協議への指定席を確保された「…育てる会」の活動は大きく弾みがついた。とはいえ、行政からの財政的支援はゼロ、活動費の殆どは会員の持ち出しという状況の中で横浜女性フォーラム、佐賀県アバンセ、福岡市アミカスなど県外施設の視察をやりくりできたのは、「公費出張」などに縁のない女達だったからこそだろうか。

 県内外の施設視察結果や各種カルチャーグループからの要望聞き取り集約などの提言、行政・業者案の検討、更には館長人選案、センター愛称審査等など、3者による協議は4年間13回に及んだ。

 利用者参加という手法に慣れない県担当者はメンバー達の直言に、時には困惑と苛立ちを隠さなかったが、足で集めた生の情報を基にした提案には耳を貸さざるを得なかった。もちろん、我々の提案・要望が全て受け入れられたわけではない。しかし、この体験から提案型の要望による行政との協働に自信を得たのは大きな成果だった。また、利用者参加という形への先鞭をつけたと自負している。

 かくして1999年1月29日、ついに「こうち女性総合センター ソーレ」が完成。開館1年後「…を育てる会」は4年間の活動を「女性センターを育てる会活動記録・ソーレへの階段」と題する小冊子にまとめ、解散した。次いで、4年間行動を共にした「…育てる会」運営委員の5人がつくったのが「ジェンダー学習会」である。高知へジェンダーの風を、と三井マリ子さんの紹介を得てノルウェーの男女平等副オンブッド クリスティン・ミーレさんを招いての講演会、続いて全国フェミニスト議員連盟夏合宿の受け入れ、さらにまたまた三井さんの援助によるノルウェー民主社会党初代党首としてクオータ制を初めて導入したベリット・オースさんの講演会、と矢継ぎ早に事業を展開した。「ジェンダー」解消の旗手である三井さんが今、ジェンダーのバックラッシュ勢力の攻撃により職を失うことになったのは、ジェンダー学習会だけではなく、「女らしさ」の呪縛から解き放たれる自由を得た全ての女性達にとって大きな衝撃である。これを提訴した三井さんを支援する会「ファイトバックの会@高知」を立ち上げ、ジェンダー学習会の活動のひとつに据えたのはいうまでもない。

 最近2年ほどは女性センター(現在は男女共同参画センター)の啓発誌作成の委託を受け、これまでの無償労働からの転換を図っているが、今ジェンダー学習会が取り組むべき大きな課題は、指定管理者制度の導入への対応である。昨年9月には横浜女性フォーラム・小磯さん、つながれっとNAGOYA・渋谷さんを講師に学習会を開催し報告書を作成、今年1月末のソーレまつりではワークショップを開いて同制度の周知をはかっているが、知るほどに問題点が浮上する。指定管理者として民間が参入できるチャンスではある。しかし、3〜5年という周期で管理者が変わるということは、その多くが女性であるセンター職員に有期雇用という不安定な形を強いることでもある。また、管理者が変わることによる運営の質の低下が懸念されないか。しかし、今やもう避けようのないこの制度をどう生かしていくかは、全国の女性施設に関わる女性達にとって共通の問題であろう。「ジェンダー」という禁断の木の実を食べてしまった女性達の責任と力で「危機を好機に」変えるしかない。


出典:(「くらしと教育をつなぐWe」2005年5月号)


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