三井マリ子さんからのメッセージ

 前号のVOWで述べたように、三井マリ子さんに昨年11月例会でお話しいただいた際、司会から女性学研究者への要望をお尋ねしたことから、今回、wssj会員に向けて以下の訴えをいただくことができました。裁判への支援の広がりを期待しつつ掲載いたします(1月8日、遠山日出也)。



いよいよ大詰め「館長雇止め・バックラッシュ裁判」


三井マリ子さん

 明けましておめでとうございます。「館長雇止め・バックラッシュ裁判」は、強力な弁護団の叱咤激励と、傍聴席からの熱い眼差しに支えられて、やっと年を越すことができました。今年は、非常勤職員使い捨ての風潮に鉄槌を下し、バックラッシュ勢力にカウンターパンチを食らわせるような判決が出るよう、願っています。

 2006年を振り返りますと、原告の私にとっての最難関は『陳述書』作りでした。『訴状』を大阪地方裁判所に提出してから1年余りの間に、弁護団と私はものすごい分量の準備書面を作成してきました。私は、原告の陳述書というものは、それらと重複しない内容で書けばよいと思っていました。ところが、弁護団のみなさんは、「重複は当然。知っていることをすべて書いてくださいね」「世間にこの裁判をわかってもらうために本を1冊出すつもりで書きなさい」と言うのです。

 私はすてっぷ(豊中市が豊中駅前に建てた男女共同参画推進センターの通称)での3年半を必死に思い返し、順を追って事実を整理しました。こうして、2ヶ月ほどで約10万字の文書ができあがりました。まさに本1冊分です。3月15日、裁判所に提出した時には、猛烈な肩凝りとピクピク瞼の症状に見舞われました。しかし、これを書いたおかげで、私の頭の中はかなり整頓されました。と同時に、館長の私を切るにあたっての、その陰湿な手法には、あらためて怒りが湧いてきました。

 仮に、ある職場から一人の人物を辞めさせなければならない事態になったとしましょう。私が雇用主の立場だったら、あれやこれや本人とじっくり話し合って本人の気持を聞くでしょう。あるいは本人に考える時間を与えるでしょう。または次の転職先について一緒に考えたりするでしょう。それが、人間社会の血の通ったルールというものです。

 私の場合、それまで誠実に仕事を続けており、評価されこそすれクレームをつけられたことはありませんでした。当局と喧嘩状態だったということもありませんでした。ところが豊中市は、私の雇用に関して、まともな話し合いをしていません。それどころか朝令暮改の組織体制変更案なるもので私を翻弄し続けました。あげくは、後任館長を裏で決めたころになって「私は三井さんを裏切りました」(山本瑞枝事務局長)という始末。不誠実の極みとしか言いようがありません。

 私の机はすてっぷ事務室の大部屋の左端にありました。私の机の右横4、50センチほどの所に、部下である山本瑞枝事務局長(市の派遣職員)の机がありました。週2、3日勤務の私は、事務局長との信頼関係を大事にしながら仕事を遂行してきました。休暇時や旅行中であっても、事務局長からは電話やメールで、事務的な相談や連絡がきました。二人は夜遅くまで一緒に仕事をしました。一緒に何度か食事もしました。冗談を言いあったり、軽口をたたいたりは、あたりまえでした。

 ですから、日常の雑談の中で、「万一、館長が常勤になったら第一義的には三井さんですが難しいですよね…」などと事務局長から切り出されて、「そうね、難しいわねぇ」と応じたのが、当初、いつの話だったか思い出せないほどでした。それが、私の連れ合いの住む信州に事務局長を誘った2003年夏の会話だったことを思い出したのは、私の身辺がなんだかおかしいと思えてきた、その年の冬のことでした。

 豊中市は、その夏以降、「三井さんは常勤はできない、と言った」と私には聞こえないところで、あちこちに言いふらした形跡があります。あたかも、私が正式に意思表示したかのような装いで。私の後の館長になった桂容子さんも、そんな豊中市の虚言に騙された一人だと思います。

 2003年11月8日、土曜日の夜9時すぎ、豊中市の部長は私に「理事会にかけられてからの話だが、組織体制変更案が出ている。館長が常勤化され事務局長と兼務となる」と告げました。その直後、同席してなかった事務局長に、「山本さん、組織変更の話、知ってた?」と聞きました。すると否定せず、「館長が常勤化されたら、第一義的には三井さんです」と、前に言ったような表現で答えが返ってきました。私は、そんな事務局長の言葉に少し安心したりもしました。実際には、その事務局長が陰で「首切り役人」の役割を担っていたのですから、私のお人よし度も相当なものだった、と今では深く反省しています。でも、人を騙すよりは騙されるほうが人間としてましです。

 私は、職場の人手が少なくなる週末を挟んで週2、3日勤務という形で働いていましたので、月曜か火曜には、「では、またね、さようなら」と皆に挨拶してすてっぷを後にしました。事務局長は、律儀にエレベーターまでついてきて、「行ってらっしゃい」と見送ってくれるのが習慣でした。長年の秘書課勤務時代に培われたマナーなのかなと、わたしは勝手に解釈していました。この丁寧すぎる儀式が2003年の秋ごろには全く消えたことに私が気づいたのは、やはりその年の冬ごろでした。

 その秋ごろ、私は、バックラッシュ勢力に属する北川悟司議員とその仲間の「市民」と称する人々から、市役所の会議室で3時間にわたってつるし上げられることとなります。その日は土曜日で、廊下は真っ暗でした。およそ1年も前にすてっぷの出したFAXの中身が北川議員の逆鱗に触れたことが原因でした。「すてっぷは三井カラーに染まっている」「三井さんを館長にしている市の責任を問題にしているのだ」などという言葉の石つぶてが飛んできました。北川議員は、テーブルをバーンと殴打しながら声を荒げて市幹部を叱責したりなど、糾弾は夜10時まで続きました。

 その後、すてっぷを担当している豊中市の人権文化部長は私に、組織体制変更はすてっぷを強化するためである、中・長期的な構想を考えてのことである、男女共同参画の条例もできて計画を実行に移すときである、などと言い出します。すてっぷの労働組合に対しては、「館長を置かないで事務局長だけになる」という文書を出します。その事務局長ポストについて、組合には「候補者の打診はしていない」「理事会で公募か公募によらない選考かを決定して2月ごろに候補者打診はスタートする」などと嘘の説明をします。評議員にまで「三井さんは最初から3年程度ということで…」という嘘をつきます。これらが私を排除するための方便だと、今ならピーンときますが、当時は、そこまではわかりませんでした。

 それやこれや、限られた紙面ではとても書ききれないほどの嘘っぽいお芝居があって、私は使い捨てにされました。そして、裁判を起こしたというわけです。

 さて、昨年10月30日の原告本人尋問は、こうした私の思いを、初めて直接裁判官に聞いてもらえる舞台でした。私を支援してくださるみなさまが大法廷使用要請運動を繰り広げてくださったおかげで、私の尋問に限ってではありますが、大法廷で開かれることになりました。その日、傍聴希望者はあふれ、申し訳ないことに3交替で傍聴席を分かち合っていただくこととなりました。

 2006年は証人尋問の年でしたが、当初、私たちが要請していた証人で認められたのは高橋叡子理事長だけでした。しかし、クリスマスの日に行われた法廷において、桂容子現すてっぷ館長の証人申請が、やっと認められました。山田裁判長が優しいサンタさんに見えた日でした。2007年の法廷は桂容子証人の尋問で幕が開きます。その証言によって、この裁判の核心部分が明らかになることを心から期待しています。

 提訴した当時、「雇止め」も「バックラッシュ」も耳にしたことがない方がほとんどでした。ところが今や、このキーワードは万人の知るところとなりました。それだけ昨年は、雇止めに象徴される非正規雇用の使い捨てと、男女平等の足を引っ張るバックラッシュの動きが社会問題として浮上した年だったともいえます。今年は、私たちが反撃する番です。私も力の限り疾走するつもりです。ご支援、どうぞよろしくお願い申し上げます。

   2007年 初春

三井 マリ子(原告、豊中市男女共同参画推進センターすてっぷ初代館長)

(出典:日本女性学研究会ニュース『VOICE OF WOMEN』2007年2月号)


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