西も東も――バックラッシュ攻撃に抗して
豊中市「すてっぷ」館長雇止め裁判を起こして

三井 マリ子女性政策研究家・東海大学北欧学科講師


『Fujin-tsushin』5 婦人通信no575


全国公募による初代館長

 2000年春、東京の自宅でパソコンに向かっていた私は、大阪府豊中市に「すてっぷ」という名の男女平等政策推進の拠点ができて、その初代館長が公募されているのを知りました。男女平等のために作られた新しいセンターに、魂を吹き込む仕事。これはチャレンジする価値がある、と思いました。応募したところ、1次選考、2次選考を通り、「2000年9月1日から採用」という採用通知書をもらいました。応募者は60人を超えていたそうです。

 私は、20代の頃から「男女不平等」をなくす運動に取り組んできました。それが高じて東京都議を2期務めました。議員だったころ、日本の行政機関としては初めて都にセクシャルハラスメントの相談窓口を新設させました。母子寮の改善や民間シェルター(暴力を受けた女性の避難所)への財政支援にもかかわりました。東京都ウィメンズプラザの設計に女性建築家を登用するよう提言し、実行させました。

 また、世界一の男女平等国とされるノルウェーの女性政策について研究調査に携わったことがあり、仕事と家庭を両立できる女性を増やすためには、公的サポートやサービスが不可欠だということもわかっていました。

 私はこうした経験から、行政の側から女性の地位向上のためにすべきことは、無限にあると思っていました。

 たとえば、日本のパート労働者のほとんどは女性です。その働きぶりにくらべて賃金はあまりに低い。いつ辞めさせられるかもわかりません。セクハラは日常茶飯事です。夫の暴力に泣き寝入りしている女性も大勢います。一方、こうした深刻な社会問題を解決する場である国や地方の政界は、あいかわらず男性がとりしきっています。女性にかかわる社会問題は男性の問題でもあるがゆえ、解決への道筋には更なる困難が伴います。

 「すてっぷ」には、便利な場所と有能なスタッフと、少なからぬ予算がありました。これを駆使すれば、こうした女性の現状を変えたいと願っている市民たちを下から支える企画は、いくらでもできます。こうして、私の大阪生活がスタートしました。

豊中市のバックラッシュ攻撃

 ところが02年秋頃から、「すてっぷ」や館長の私への攻撃が目立つようになりました。市議会議員の度重なる嫌がらせ質問、「すてっぷ」窓口への妨害行為、市役所周辺での悪質なビラ撒き、講演会における難癖、根も葉もない噂の流布……こうした攻撃をする勢力は、男女平等を敵視し、旧来の固定的性別役割にこだわります。たとえば、市長与党「新政とよなか」の北川悟司議員はテレビの取材に応えてこう言っています。

 「オスとメス、男と女というのは有史からずっとあるわけですから・・・男性は小さいうちから男性の自覚を、女性も(女性としての)自覚を育てていくべき…」(05年4月14日、毎日テレビ)

 北川議員は議会でたびたび「すてっぷ」についても質問という形をとって注文をつけました。

 「すてっぷライブラリーの蔵書の中にある多数のジェンダーフリー関連の図書は、市民に誤解を生む原因になります。一方的な思想を植えつけるような図書は、すてっぷをはじめ学校図書館などから即刻廃棄すべきである」(02年12月議会)

議員質問の形をとって

 1999年、男女共同参画社会基本法が制定されると、自治体は同法の趣旨を徹底させるための条例の制定に取りかかりました。また、男女平等の社会を構築していくための拠点施設も造り始めました。「すてっぷ」は、まさにそんな施設のひとつでした。

 こうした動きに対抗するように、男女平等を嫌う勢力から執拗な攻撃が始まりました。その勢力は主として、国会や地方議会で「議員の質問」という形をとって、その行動を開始したのです。

 こうした男女平等つぶしの継続的組織的動きは、バックラッシュと呼ばれます。アメリカの女性解放運動への組織的攻撃について著した『バックラッシュBacklash』(スーザン・ファルーディ、1991年)が世界的ベストセラーとなったことから、男女平等の流れに逆らう反動現象をこう呼ぶようになった、というのが定説です。

「組織強化」の名の下に

 さて、04年2月、豊中市は臨時に「すてっぷ」財団理事会を開き、「組織強化」の美名のもとに「非常勤館長を廃止し、館長は事務局長兼務の常勤職」としました。この常勤館長職は公募とせず、採用選考委員会で選考することも決めました。その理事会で私は、非常勤館長としてこれまで評価されてきたのだから私を常勤館長にしてほしいと述べ、あえて採用試験を受けたいと申入れました。一部理事の意見もあって私の希望は受け入れられました。私は採用試験に臨みましたが、不合格とされ3月末で館長の座を追われました。

 実は、市は03年10月から極秘に後任館長の人選を進め、11月から次期館長就任の要請をしていたのです。採用試験2ヶ月前の03年12月、すなわち理事会の2ヶ月前には新館長を決めていました。採用試験は虚しい儀式でした。

条例案反対なのに賛成した背景には

 全国公募をしてまで選んだ館長の下に行われてきた組織の事業を評価し、その組織を強化するというのに、館長の私をなぜ首にしたのか? この事態には背景があります。

 豊中市議会のバックラッシュ勢力は、私が首になるのを望んでいました。その議員たちは、男女共同参画推進条例案を上程した市長の与党でしたが、条例案には断固反対でした。行政と議員間に事前折衝があることは当たり前ですが、与党に強固な反対議員がいる場合には、よりねんごろに行われます。これは、私の議員経験からも言えることです。条例成立と引き換えに私を首にすることは、最も可能性の高い取引材料だったと、私は考えています。

これは女性差別と闘う裁判

 私の首切りは、常勤館長だったら起こりえませんでした。非常勤職だったからこそ、使い捨てられたのです。日本に1500万人はいるといわれる非常勤労働者。その多くは女性です。私は、不当な雇用拒否と闘うため大阪地裁に提訴しました。非常勤職差別、そしてバックラッシュに反撃するための裁判です。ご支援ください。

( 裁判に関する情報はHP http://fightback.fem.jp でご覧下さい )

「fujin-tsushin 2006.5 no.575」編集発行者と筆者の許可を得て掲載したものです。


出典は『婦人通信』(日本婦人団体連合会、2006年5月号)
婦人通信HP http://www16.ocn.ne.jp/~fudanren/tuushin/tuushin.html

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