女性コーナー

館長雇止め・バックラッシュ裁判

豊中市男女共同参画推進センター初代館長・女性政策研究家
三井 マリ子 


『月刊まなぶ』

 昨秋、大阪地裁は、雇用継続を拒否した大阪府豊中市らに損害賠償を求めた私の訴えを棄却しました。私は大阪高裁に控訴しました。

 豊中市は嘘に嘘を重ねて私の人生を翻弄しました。私は、その人間としての不誠実さに直面して苦しみました。体中に湿疹ができ、眠れない夜が続きました。そして職を失い収入がなくなりました。ところが、一審判決は苦しみを倍増させるものでした。

 この私の苦しみは、この日本社会において軽んじられてきたおびただしい数の働く女たちの苦しみであり、大勢の非常勤職の人たちの苦しみです。

 私の首斬りの背後には、バックラッシュ勢力の攻撃があります。その勢力は、女性が個人として生き生きと生きていける社会が嫌いです。その勢力に属する人々は、男女平等を求めて活動する人々を執拗に攻撃します。その手法は、事実を歪曲したり、根も葉もないことをでっちあげたり、誹謗中傷をしたり、それを噂、メディアなどで広めます。たとえば私に関しては、「三井館長は、講演会で専業主婦は知能指数が低い人がすることで、専業主婦しかやる能力がないからだと言った」というとんでもない嘘を、市議会議員が噂と称して流しました。

 こうした攻撃は豊中市だけではありません。日本の津々裏々で、男女平等推進施策を踏み潰しては快哉を叫んでいます。

 そのような攻撃を受けて疲弊している多くの人々に対しても、一審判決は、さらなる打撃を与えたのです。

 2000年、私は全国公募に応募した60人以上から選ばれ、豊中市の男女共同参画推進センターの初代館長に就任しました。センターは「すてっぷ」と呼ばれました。豊中市民の長い間の夢でした。「男女平等の社会をつくることは国の最重要課題」とうたう男女共同参画社会基本法の賜物でもありました。

 私は、「豊中にすてっぷあり」と言われる日を目指し懸命に働きました。すてっぷから徒歩数分の地に住まいも移しました。こうした私の仕事は、市や財団から評価されこそすれ批判されたことはありませんでした。

 しかし3年後、豊中市は、「組織強化」の美名のもとに、2004年4月からは非常勤館長職をなくして館長を常勤化すると言い出しました。そうなった場合、「第一義的には三井さんです」と言って私をだまし、裏では「三井は3年で辞めると言った」との嘘をふりまいていたのです。

 候補者リストが極秘に作成され、2003年10月には市長にだけ見せて、「それで当たれ」という市長命令の下、候補者打診が進められ、12月には次期館長をひそかに決めていたのです。

 全国からの抗議や、私が「常勤館長をやる意思がある」と表明したこともあって、2004年2月、市は採用試験をすると決めました。すてっぷ館長として働き続けたかった私は一縷の望みをかけて受験しました。しかし私は不合格とされ、2004年3月31日で豊中市を追われました。

 その採用試験官には、後任館長探しに狂奔していた市の人権文化部長が入っていました。この不公正さを1審は認めています。しかし、慰謝料を支払わないといけないほどの違法性を認めることはできないというのです。

 この判決を聞いて、「10発殴られたら違法、と言ってやってもいいが、5,6発だろ、我慢しろよ」と言われたような気持になりました。

 私の後任となった常勤館長は「組織強化になっていない」と法廷で証言し、2007年3月で辞職。こうして、すてっぷは、常勤館長の休職期間を入れると館長職不在のまま1年以上が過ぎました。まさに、バックラッシュ勢力の狙い通りのことが豊中市で起きています。

 「非常勤の使い捨て」と「バックラッシュ攻撃」という日本社会が抱える2大問題に挑む裁判です。支援してください。

支援の申込みは「館長雇止め・バックラッシュ裁判を支援する会」まで

(出典:『月刊まなぶ』 2008年5月号) 

発行所:労働大学          


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