豊中市男女共同参画センター「館長雇い止め・バックラッシュ裁判 」札幌集会 (07・10・21) 講演要旨

右翼勢力のジェンダーフリー攻撃に屈した豊中市

原告 三井 マリ子(豊中市男女共同参画推進センター初代館長)

あごら札幌 273号

 2007年9月12日、雇用継続を拒否されたことは違法だと訴えていた私に、大阪地裁は不当判決を下しました。「10発殴られたのなら救ってやるが、5,6発じゃないか我慢しろ」とでもいうような内容でした。判決後少しメソメソしていましたが、今はふっきれました。非常勤の使い捨てと、男女平等推進を嫌うバックラッシュ攻撃に行政が屈服したという問題を扱う裁判です。こんな不当な判決に黙っていることはできないと、控訴しました。

 2000年、東京にいた私は、大阪府豊中市が男女共同参画推進センタ ー・すてっぷで初代館長を全国公募していることを知り応募しました。60人以上の応募者がいたそうですが、書類選考、面接を経て館長に選ばれました。

 私は、すてっぷ館長として挨拶をしたりだけでなく、男女平等を地域のすみずみに浸透させる企画を数多く立案し、スタッフとともに働きました。英語で男女平等を教えるインターネット教室を開講したり、自費でノルウェーから社会学者を招き北欧の男女平等社会の講演会をしたりもしました。公民館などに出かけて行って、源氏物語のある場面を寸劇ふうにしたものを皆で演じてもらい、当時の男女について考える講座を開いたりなど、地域に根ざした企画も手がけました。大きく報道されるようになり、視察に訪れる方も増えてきました。市や財団からも市民からも評価されこそすれ、批判されたことは一度もありませんでした。

 ところが、です。2003年11月8日、夜9時すぎ。豊中市の人権文化部長がすてっぷに来て、「館長を非常勤から常勤にする。正式には理事会で審議される」という話を私に告げました。突然で驚きました。すてっぷの事務局長(市の管理職からの派遣)は、その後すぐ、「常勤館長になったら、第一義的には、三井さんです」と私に言いました。それで私は少し安心しました。しかし、すてっぷの組織全体に関わることを、事務局内で一度も議論したことがないのに変だ、と思いました。

 組織変更案が市から出されたと同じころ、すてっぷの内部文書がバックラッシュ勢力の北川悟司議員の手に渡り、市の部長が彼から怒鳴られたという知らせが入ります。その内部文書は、議会内外でのバックラッシュ派の攻撃を年表にしたもので、作成されたのは1年前でした。

 そして2003年11月15日、土曜日で誰もいない市役所の会議室に、私と事務局長が呼び出されます。そこで、北川議員と彼の支持者たちに、夜7時から10時まで3時間にわたって糾弾されたのです。北川議員側は、「すてっぷは三井カラーに染まっている」「三井さんを館長にしている市の責任を問題にしている」などと言いました。時々、北川議員が口をはさみ、「市はいったいどうなんだッ!」と机をバーンと強打しました。

 北川議員は日の丸・君が代の強制で教育委員会を窮地に陥れるような発言で知られていました。「教育再生地方議員百人と市民の会」という日本会議系組織の代表であり、すてっぷの事業、蔵書について「ジェンダーフリー攻撃」をし続けていました。とくに2003年3月上程とされていた男女共同参画推進条例に断固反対を貫いていました。

 一方、まったくの偶然から、私の後任の館長探しを市が極秘に行っていることを私は知ることになります。糾弾事件の数日後、知人が「三井さんも大変ねぇ。私にも話しがあったのよ」と言っていたのが気にかかりました。12月になって、彼女に「私にも話しがあった」ということは何かと尋ねました。すると、「三井さんが3月で辞めるということで、常勤館長になってほしいと、部長から11月21日に頼まれた」と言うのです。

 私には理事会で話し合って決まるとか、第一義的には三井さんですとか言っておきながら、その裏で「三井は3月いっぱいで辞めると言っていた」という嘘を前提に、次期館長探しがこっそりと行われていたのです。また、私が言ってもいないひどい発言を講演会で私が言ったという噂が流れてきました。一方、すてっぷ利用者を中心に、「三井館長続投」を要望する動きが始りました。

 すてっぷは、女性の人権の確立を図り、男女平等の社会をつくっていくために作られた施設です。そこに種をまき、ようやく芽が出て、つぼみがふくらみかけてきたところでした。私は、花を咲かせようと懸命に働きました。なぜ突然雇止めになるのか。館長職が常勤化されるのだから、実績のある者でいいはずなのに、なぜ私を排除するのか。4月から働けなくなるかもしれないという恐怖やストレスから眠れなくなり、体中に湿疹ができました。

 豊中市に男女共同参画推進条例を作らせまいと活動してきた北川悟司議員などバックラッシュ勢力と、市が取引したのだ――こう私は確信を持ちました。北川議員は市長与党です。しかし市が制定しようとしている条例案には反対。北川議員は、議会では審議会答申を非難し、議会外ではその支援団体がビラまきなどをしかけてきました。日本会議系の集会では「変な条例を断固阻止する…」と決意表明しています。2003年、2月には高橋史朗氏や山谷えり子氏が豊中に来て講演をします。タイトルは「ちょっと待って! 『男女共同参画社会』」。会場は、男女共同参画推進条例反対の署名集めの場と化したそうです。

 市は、2003年3月議会への条例案の上程を断念します。当時の部長は「バックラッシュの力大きかった」と市民に説明しました。

 2003年4月は統一地方選挙。北川議員は当選を果たし、すてっぷ評議員に就任します。市長公約の男女共同参画推進条例上程は9月。市は、面子にかけても制定させなければいけません。しかし、与党には強固な反対派の議員がいる。こういう場合、いつもよりねんごろに根回しが行われます。客観的にみて、条例に賛成起立するかわりに、私を雇止めすることは、最も可能性が高い取引材料だったと私は思います。

 2003年9月。北川議員は、委員会で市の条例案への自作の対案を示して、逐条ごとに市の案に反対であると述べました。しかし、奇妙なことが起きました。彼は賛成の起立をしたのです。本会議で最終的に決定されますが、そこでも北川議員は条例案に反対の発言を続けました。ところが、ここでも彼は、自分の反対意見は「賛成討論」であると締めくくり条例案に賛成したのです。こうして、豊中市男女共同参画推進条例は可決成立しました。

 つまり、11月の市役所での3時間にわたる対行政暴力とも言える糾弾事件は、「こっちは反対なのに賛成してやったじゃないか。今度はそっちが三井を斬る番だ」とダメ押しをする場だったのではないか、と思います。市は、2004年3月31日、私を雇止めしました。

 私が提訴に踏み切ったのは、非常勤は使い捨ててもいいんだということが許せなかったことと、男女平等を進める責任を有する市がバックラッシュ勢力に屈したことは絶対にあるまじきことだ、と思ったからです。これは、女性差別撤廃条約、憲法、男女共同参画社会基本法に反するとんでもない行為です。


出典:『女のスペースおん通信』Vol.163 (2007.12.15) 
(発行:NPO法人女のスペース・おん、編集責任:おん通信編集委員会
 http://www.ne.jp/asahi/sapporo/space-on/whatson.html)


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