第1回口頭弁論
提訴にあたって

三井 マリ子(館長雇止め・バックラッシュ裁判原告)



 昨年3月、豊中市は、私の職場である「すてっぷ」から、館長の私を排除しました。抹殺した、という表現が当たっているかもしれません。
 2000年春、私は、豊中市に『すてっぷ』という名の男女平等政策の拠点ができて、初代館長が全国公募されているのを知り、応募しました。60人以上の応募者がいたそうですが、幸いにも私が選ばれて、初代館長に就任いたしました。
 週22.5時間の非常勤でしたが、与えられた時間と権限をフルに使って最大限の努力をしました。その結果、すてっぷの名は関西ばかりか全国のメディアに取り上げられ、広く知られるようになりました。
 ところが、2004年2月1日、市は臨時に『すてっぷ』理事会を開き、「組織強化」と称する改革案を提案し、通しました。その中身は「非常勤館長を廃止し、館長は事務局長兼務の常勤職とする」ものでした。新館長は公募とせず、理事長の任命する採用選考委員会で選考することも決まりました。
 私は採用試験を受けたいと申し入れ、認められました。
 当時の私は、多くの事業を予定どおり遂行しなければならない中で、市が次々に出してくる組織変更案に翻弄されっぱなしでした。そのことが原因の疲労感、首を切られるかもしれない恐怖心、嘘をつかれてきたことの屈辱感から、眠れない夜をすごしました。しかし、「まだ絶望するのは早い。理事の良心に賭けよう」――こう思って面接試験に臨みました。
 しかし、市と財団理事長は03年秋頃から極秘に後任館長の人選を進め、候補者リスト作成し、一人ひとり打診をしていました。そして、私が受けた試験の2ヶ月前には、すでに次期館長を決めていました。採用試験は茶番劇だったのです。それをはっきり知ったのは、試験が終わってからでした。面接試験の3日後、「不合格」の茶封筒が私に手渡されました。
 なぜ豊中市は、私を排除したのか。狙いは2つあると思います。
02年秋頃から、『すてっぷ』や私へのある勢力による攻撃が目立つようになりました。市議会議員の度重なる嫌がらせ質問、すてっぷ窓口への妨害行為、市役所周辺での悪質なビラ撒き、講演会における難癖、根も葉もない噂の流布……こうした攻撃をする勢力は、男女平等を敵視し、旧来の固定的性別役割にこだわります。そこで主に男女共同参画を進める行政をターゲットに、全国的組織を使って圧力をかけてきます。このような現象は、世界的にバックラッシュ(反動・逆流)と呼ばれています。
 市当局は、当初、このバックラッシュに対峙する姿勢を見せましたが、03年の秋頃になると、対峙どころか逆に私の排斥を画策するようになりました。つまりバックラッシュ勢力の圧力に屈したのです。
 以上が第一番の理由です。
 第二の理由ですが、すてっぷの就業規則によれば、館長を含む嘱託職員は、よほどの事がない限り何回でも更新が可能です。ところが、事務局長は03年夏、館長を除く嘱託職員の就業規則を「更新回数の上限を4回とする」との改悪案を出してきました。嘱託職員は私を含め全員が女性です。これが女性差別でなくて何でしょう。女性の権利を守るべき「すてっぷ」にあるまじき行為です。それに私自身、非常勤職員ですから、これは私の問題でもありました。強行すれば抵抗することが明らかな私を、市は疎ましく考えたのでしょう。
 こうして情熱を傾け誠実に働き続けた私は、非常勤ゆえ、このような嘘と謀略に振り回された挙句に使い捨てとなりました。先進諸国では、私の身に起きたような使い捨ては、過去のものとなりつつあります。この点は、今後、法廷で明らかにしてゆく所存です。
 とにかく、バックラッシュの陰湿な攻撃は目に余るものがあります。これは日本全体に言えることですが、行政側は、そのバックラッシュ勢力に飲み込まれて、男女平等の推進施策を後退させています。そのつけは主に女性たちが受けることになるのです。私はこの裁判を通して、バックラッシュ攻撃が、いかに人類の進歩と発展に逆行するものであるかを述べて参るつもりです。
 以上、提訴に踏み切った、私の心の背景を述べさせていただきました。


(2005年2月2日、大阪地裁809号法廷で述べた発言原稿)


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