陳述書

2007年11月27日

望月 奈緒

「すてっぷ・ポスター展」で三井さんと出会って

  三井マリ子さんは、私の希望の星です。

 私が初めて三井さんに会ったのは、とよなか男女共同参画推進センター「すてっぷ」で開かれていたポスター展でした。たしか、2004年3月初め頃で、ポスターはフランスで使われたものだったと思います。妊娠・出産をめぐる女性の権利についてのポスターとその解説が展示されていました。それを見たり読んだりしながら、新しい発見をしたり、女性の権利を再認識したりすることができました。とても刺激的でした。一緒に見に行った夫とも、この企画展で学び知ったことについて、議論することができて楽しかったです。

ポスターを見ている私たちの前に颯爽と彼女が現れました。その時、私のおなかには長女がいたのですが、それに気づいた三井さんが“Are you pregnant?”と、にこやかに声をかけてくれたのです。照れている私を、彼女は“Congratulations!”と祝福してくれました。あのときの情景――――彼女の格好良さ、知的な印象―――― は、いつまでも色褪せることはないでしょう。私がそれまで日本のフェミニズムについて抱いていた先入観も払拭されました。

 その後、2005年3月から9月末まで、夫の仕事の関係で私たちは生後間もない子供といっしょにフランスへ生活の場を移すことになりました。そのため、その後の三井さんの「すてっぷ」での企画に接する機会を逃してしまったことは残念です。けれども、初めての外国生活でしんどい思いをしていたときに、勇気をふりしぼって一歩を踏み出すとき、いつもあのときの三井さんとの出会いの思い出が私を支えてくれました。さらに、私も三井さんのようになりたい、という憧れの気持ちが、フランス語を勉強するうえでもとても励みになったのです。そうして私は、拙くはありますが、とうとうフランス語を話せるようになりました。そして、それが今、どれだけ私の人生を豊かにしてくれていることか言葉ではいい表せないほどです。

 ポスター展でも触れられていたフランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を手にすることも、もし彼女との出会いがなければ、なかったのではないかと思います。この本を読んだことが、長女とその後生まれた次女の子育てに新しい視点をもたらしました。私や私の娘たちがいまの時代の日本で「女性」として生きていかなければならないということについても、よく反省するようになり、またそのことに関して政治的に考えるようにもなりました。

 私は2005年秋にフランスから帰国しました。同年、何月のことであったかは定かではありませんが、三井さんに会いたいと思い、夫と二人でふらりとすてっぷを訪ねました。

すてっぷに掲示されていたイベント・スケジュール表の館長名は、「桂容子」でした。そこでカウンターへ行って、「三井さんはおられますか」と私が尋ねると、応対してくれた方は、「ちょっとお待ちください」と言って、いったん事務室の奥へ下がりました。そして少しの間の後、その方は再びカウンターの方に戻って来て、「三井さんは亡くなりました」(と、そのとき私たち二人には聞こえたのです)と言ったのです。私たちは呆然としてしまいました。残念な、悲しい、しかしそれが信じられないような気持ちで、すてっぷを立ち去ったのです。

 今年の夏ごろ、偶然、豊中市内のNPO法人「障害者の自立を支えるサポートネットワーク」(サポネ)で、「三井マリ子さんを囲んでー―“すてっぷ”で何があったのか」というタイトルの案内チラシを見つけとても驚きました。三井さんは生きていたのです。

私は、何をさておいてもその集会に出ようと決心し、二人の子どもを連れて参加しました。そこで、私は、三井さんが不本意にもすてっぷを辞めさせられたのだと知りました。私はそのことにもショックでしたが、「亡くなった」と聞かされていた三井さんに直接会えたことで、感涙にむせんでしまいました。

今回の裁判を見守るなかで、非正規雇用の問題の陰に隠れてしまっていますが、やはり女性差別やジェンダーをめぐるバックラッシュの問題が本質的であるように私は思います。誰が、どのような底意をもって、三井さんのような輝ける女性を葬ろうとしたのでしょうか。けれども、どのような悪意の攻撃を受けようとも、輝ける星の光は絶対に消えない。この光によって照らされ、三井さんを道標にして歩いてきたのは私だけではないはずです。司法には公正な議論の場を確保されんことを願います。どうか、この光が遮られることなく、もっとたくさんの人たちに届きますように。

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