陳述書

2007年12月2日
 杉原 妙子

 私は、現在は大阪しに在住していますが、以前は豊中市民でした。そして「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ」(以下すてっぷ)の開設準備段階から、発足後5年間豊中市民としてすてっぷに関わってきました。その過程における豊中市の市民に対する扱いがどのようなものだったかについて、以下に述べます。豊中市の姿勢が、すてっぷ館長三井マリ子さんの不当な“解雇”につながったと思うからです。

 第1審は、すてっぷ館長三井さんの不当な“解雇“を正当化しました。この判決は、三井さんを陥れるさまざまな事実を認めながら、解雇を不当とまでは言えないとしています。どこをどう読んだらそのような結果になるのか理解も納得もできず、裁判自体への信頼を粉々に打ち砕くものでした。

 豊中市は、三井さんを使い捨てする前に、私たち市民にも使い捨て同然の対応をしましたが、人のよい私は、同じようなことを三井さんにまでするとは思いもよらなかったのです。

 私は、1998年6月、豊中市の「女性総合センター開設に向けた市民からの意見募集会」の呼びかけに応じ、参加しました。大阪市での勤務を終えてから、毎月の会合に出席することは楽なものではありませんでしたが、「豊中市は後発ゆえに、他市を超えるような素晴らしい女性センターにしたい」という市の担当者の言葉に共感したから、がんばり続けました。

 応募した市民の多くは、引き続きすてっぷオープニングイベント実行委員となりました。オープニングに向けて、イベント実施のためのグループ別分科会が作られました。しかし、分科会で骨組みができ、いざ、企画案を出すと、豊中市側から大幅な修正を求められました。豊中市の担当者の意向に応じて修正にも応じたのち、具体的にすすめようとすると、今度は、企画全体がひっくり返されました。

 具体的な例をあげます。「ジェンダーフリーファッションショー」が「映画鑑賞会」と似ても似つかぬものに変わってしまったのです。私たちのそれまでに費やした時間や労力が水の泡になってしまいました。しかしながら日程もせまっていたことから、映画鑑賞会でもやらないよりいいか、仕方ないかと私たちのグループは怒りを抑えて、作業を続けました。

 ところが、このような豊中市担当者の「指導」は私たちのグループだけではなかったことがわかってきました。多くのグループが豊中市から同じような「干渉」を受け、企画案の大幅な修正に応じていたのです。このことは、オープニングイベント後にとられた実行委員のアンケートの結果が示しています。このアンケート結果には、実行委員として関わった女性たちの豊中市に対する不満や怒りが吹き出ていました。

 豊中市は、市民の意見がほしかったのではなく、豊中市の望むとおりに動く手足がほしかっただけなのだと思うにいたりました。こうして、私たちは、まさしく骨折り損のくたびれもうけ状態となり、この女性センターが本当に女性自身にとってエンパワーメントになるのか、強い不安を覚えることになりました。

 そして、三井さんが初代館長として赴任。もう豊中市とパートナーシップなど組めないとあきらめていた市民の中には、再度すてっぷに関わりながら豊中市の男女平等を進めようとした人も出てきました。

 しかし、オープニング以来の三井館長の画期的な企画もなくなり、現在のすてっぷは、まさしく私たちの危惧が現実のものになったことを証明しています。

 こうして、せっかく集まった実行委員の熱意や実行力などの人的財産も、無駄になり、その後有効に生かされていません。オープニングのアンケート結果に現れた市民の意見や提案も何も生かされませんでしたが、それだけでなく、この貴重な建物や財産さえほこりにまみれています。女性のためのすてっぷは、どうなるのでしょう?

 日本は、男女平等の後進国です。いくつもの国際的なデータがそれを証明しています。何とか推進しようとしてきた意欲的で優秀なリーダー(その一人が三井さん)さえも、バックラッシュ勢力に力を貸してしまった豊中市によって失ってしまいました。男女平等に向けて動こうしていた矢先に、そのチャンスも逸してしまいました。

 一部議会勢力からの圧力があろうとも、豊中市が男女平等を熱望する市民のほうを向いていたなら、三井さんの排除までには到らなかったと思いますが、前述のように市の姿勢は市民のほうを向いてなかったことがこの結果を生んだと私は確信します。

 豊中市に聞きたいです。男女平等ってそんなに怖いのですか? 行政は市民よりももっと男女平等を具体的に推進してゆくべき責務を持っているはずです。もっと視野を広げて男女平等を進めてほしい。男女平等は、男性にとってもすばらしいものなのです。

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