陳述書

2008年1月18日

谷岡 文香

女性センターに三井さんを戻してください
―――劣等感の塊だった半生を振り返って―――


 私は1930年生まれの78歳の女性です。9人兄弟の真ん中に生まれました。 男3人女6人でした。長男は大切にされましたが、女は特に粗末にされました。それが家族制度の特徴でした。

 15年戦争の中で育ち、食料難で、11歳から百姓をしたり、女学生のときは学徒動員で軍需工場で働きました。敗戦になり世の中の混乱とインフレはすごいものでした。勿論ひどい食糧難は続いていました。娘盛りをもんぺ姿で過ごし、男一人に女トラック1台といわれた時代でした。

 姉妹の中でも不美人だった私は「結婚は出来ない」と思い、それを覚悟して、洋裁で身を立てようと一生懸命に頑張りました。幸い24歳の時、短大の家政科の先生として雇われました。その頃近所にいた男性が「好きだ」と3年間私にまとわりついていたので、其の年の11月に結婚しました。母親は反対しましたが、劣等感の塊だった私は「こんな不美人でも良ければ」と思いました。生まれてから褒められたことは一度もなく、女学校の良妻賢母教育は「女はあほで馬鹿だ、男は賢くて偉い。だから男に従順なのが一番良い。それが幸福になる道」というものでした。まじめな私はそれを信じて、「男は女より賢くて偉い」と思っていました。

 夫の目的は私の親の財産でした。零細企業の経営をしていた夫は、私の持参金は勿論のこと私が学校から貰うボーナスなど、すべて巻き上げて行きました。その上、気に入らないことがあると「アホめ、馬鹿め」と怒鳴って、お膳をひっくり返しました。ひっくり返したお膳の後始末に1時間半は掛かるので、なるべく夫に逆わらないよう心がけましたが、それでも度々ひっくり返しました。亭主関白で家事をすれば沽券に拘わると思っているので、子供が生まれてからは大変でした。私は、家事、育児、勤務と一人でこなしました。休む暇などまったくありませんでした。3人目にやっと男の子が生まれて夫は喜びましたが、それでもその子供を風呂に入れたことは一度もありません。

 私は疲労困憊して地獄のような毎日でしたが、会社が火の車で私の給料で一家を養わねばならないので学校を辞めることはできませんでした。私が学校にいる間だけベビーシッターを頼みましたが、皆が寝静まってから勉強しました。貧乏所帯のやりくりの中、酒飲みで大食いの夫の食事の支度は大変でした。

 私が35歳の時、とうとう夫の会社は倒産しました。3人の子供は小学生でしたし、見栄っ張りの夫をあわれに思ってしまい、実家から資金を借りて会社を再建させました。「離婚は女が悪い」と思われる時代でしたので、離婚に踏み切ることはできませんでした。

 その後、大阪万博の景気もあって倒産時の借金を大方返すことができました。勿論私も始末をして貯金をし、夫の言うままに金を渡しました。夫が50歳のとき大病をし、51歳のとき死に病になりました。私は夏休みのすべてを費やして一生懸命に看病しました。夫は生き返ったとき、医学の進歩や看護に一切、感謝せず「人間はどうせ死ぬのだから、これからは快楽を求めるのだ」と宣言しました。私は呆れてしまいましたが、まさか本気だとは思いませんでした。

 それから夫は浮気など始めたようですが、私は娘が証拠写真を見つけてくれるまで、気がつきませんでした。60歳を過ぎてもたびたび私に金をねだるので、「この人は結局、経営能力がないのか」と不審には思っていました。「俺は絶対、浮気をしない」と月に1回、私に宣言していたので、それを信じていましたが、真っ赤な嘘で、若い女をマンションに住まわせていました。女房の金を巻き上げて女を囲うとは、悪魔だと思いました。

 さすが忍耐強い私も今はこれまでと思い阪神大震災のあと65歳で、家を出ました。それから離婚裁判をしました。ところが夫は金づるの私を失いたくないので、ねばりに粘るのです。6年8ヶ月たって倒産の噂が聞こえてきたので、裁判官の言うままに手切れ金を払って協議離婚にしました。私の手切れ金は夫の弁護士の礼金になったようです。後に弁護士から私が誠実に振り込んだことを感謝されました。

 夫は守銭奴で自分のためだけに金を使いました。見栄っ張りでおしゃれで、ゴルフにカラオケ、買春旅行にと充分人生を楽しんだと思います。結局40年間一家を養ったのは、ほかならぬこの私だったのです。それも忍従に次ぐ忍従の中で。こんな馬鹿げた人生があるのだろうか? 百姓で鍛えた体があったから何とか乗り越えられたのです。男仕立てまで習った洋裁の実力が一家の収入につながったし、家計の節約に私は貢献したと思います。でも、余りにも不合理すぎる人生だと思います。

 振り返れば、男女の教育が根本的に間違っていたのではないでしょうか。男性は能力がなくても奉られるように、女性はそういう男性に黙って従うように教育されてきました。女性は能力があっても、その能力を正当に評価されて来なかったと思います。私は「女はアホだ、馬鹿だ」と言われ続け、劣等感の塊のなかで大きくなりました。私の強い劣等感は家父長制と男尊女卑の思想の重圧のせいです。

 だから女性も一人の自立した人間としてのびのび生きようということを土台に、男女平等の社会をつくろうとする女性センターの存在や活動はとても大切です。女性を力づけ、女性の実力を発揮させて社会に貢献するようにもって行くことが、私のような不合理な人生を送る女性をこれ以上増やさないためにぜったい必要なのです。いやそれだけではなく、周囲には今でも、私の夫のように「男」というだけで女性に威張り散らしている男性は大勢いますが、そういう男性を増やさないためにも、さらに、こうした男性を甘やかしている環境を変えるためにも、女性センターは必要です。

 人口の半分は女性です。その半分の人間を、理由なく劣等感のもとに置くのは、女性の人生を苦しませるだけでなく、社会の損失でもあります。豊中のすてっぷに三井マリ子さんが来られて館長になられた時、私はどんなにうれしかったか。三井マリ子さんならきっと女性に自信を持たせ、社会に役立つ人間にして下さると期待していました。

 豊中市やすてっぷ財団は、組織を強化充実するために館長を非常勤から常勤にしたと言っています。それなら、すぐれた企画力を持ち、非常勤としてがんばってきた三井マリ子さんを解雇する必要なんてありません。とんでもないことです。すぐに元に戻してください。お願いします。これが関西の女性の願いです。

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