陳述書

2007年11月30日
和田 明子

豊中市行政の裏切りと市民運動弾圧

 私は、すてっぷ(豊中市男女共同参画推進センター)から10分ぐらいの所で女のスペース「フリーク」(喫茶店)を25年間つづけてきました。すてっぷの創設前から豊中市の女性政策に関わってきた者として、三井マリ子館長が“解雇”されたのは市側とバックラッシュによる密約があったからだと考える立場から陳述いたします。

 「フリーク」をオープンした1982年当時は、まだ公的な女性センターが開設されていなかった頃でした。フリークに集まる仲間たち(女たち)と女性問題の学習会や、絵や川柳の作品展、コンサート、DV被害者の支援活動などに取り組んできました。フリークは、今の女性センターのような働きを持っていたといえます。また豊中市の女性職員もフリークの催しに参加することがよくありましたし、私は何度か女性問題の講師として市から呼ばれました。

 1995年12月、豊中市は総合的女性センターをつくるために、「豊中市女性センター基本構想委員会」を発足させました。その委員会に私は市民委員として参加しました。これが後のすてっぷとの関わりの始まりでした。この委員会は1997年12月まで2年間続きました。

 1998年になると、市民とのパートナーシップで新しい女性センターをつくるという豊中市の呼びかけで「(仮称)女性総合センター開設に向けた市民意見募集会」がスタートしました。約100人の女性が集まりました。2000年に入り、仮称だった女性センターが「とよなか男女共同参画センターすてっぷ」と決定。同年4月、「とよなか男女共同参画センターすてっぷオープニング事業市民実行委員会」という名の組織がスタートしました。この市民実行委員会は月1回の例会で活動し、後半は月2回の例会に増えました。

 名称は変わりましたが、1998年から2000年11月のすてっぷオープンまで、約2年半つづきました。豊中市は、印刷物では「市民とのパートナーシップで新しい女性センターをつくる」と、市民に夢と期待を持たせていましたが、実体は対等な関係ではありませんでした。市民に自由に討論させますが、物事が具体的に決まりだすと、必ずチェックが入り変更を求めてきました。すなわち行政のパートナーシップとは、体のいいボランティアの強制だと思ったものです。

 こうした市民の意見や不満、苦情は、すてっぷオープニング終了の際のアンケート用紙に書き込みました。しかし、そのアンケート結果は市が回収したまま、なかなか表に出ませんでした。「オープニング事業市民実行委員会のアンケート集約」が出たのは、すてっぷがオープンして7ヶ月後でした。そこには、

 ○ 市民のアィディアが肯定的に生かされず非常に残念であり、すてっぷの精神(エンパワーメント・連帯)に矛盾する。
 ○ 自主的に活動している時に、すてっぷ事業部からのストップが何度も入って、やろうと思っていたことができなかったり、足止めをくったことで思い切りできなかった。
 ○ してはいけないことが多すぎる。
 ○ 一般市民の活動を規制して欲しくない。バリアフリーの時代です。

などと、当時の市民の不満と怒りが噴出していました。

 実は、この集約が最初に出た時は、このような批判は一切カットされていました。その後、市民の抗議で3ヶ月後にやっと再印刷・再発行されたのです。この顛末を少し説明します。

 オープニングイベントが開催されていた2000年11月17日〜19日の3日間、そこに参加した方々と、オープニング事業市民実行委員会がしたアンケートの結果は、一冊の報告集としてまとめて発行されることが決まっていました。2001年3月31日、その「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ、オープニング事業報告集」が発行されました。その「報告集」を見て驚きました。市民実行委員会のアンケート結果が収録されていなかったのです。

 この時、三井マリ子館長の協力がなかったら市民の怒りや不満は完全になかったものにされていたでしょう。私たちは、市民の不満の声がアンケート結果から無視され削除されていることを、事情を知らなかった彼女に訴えたのです。それを聞いた彼女が、そのアンケート結果の用紙を探し出す努力をしてくれたのです。

 この苦い経験から、私はオープニング事業に関わった仲間たちとともに、「すてっぷ」を市民の望む市民のための女性センターにしたいと豊中市に要望書を出したり、ときにはすってぷ職員と話し合いを持ってきました。

 2002年12月のことです。

「来年の3月議会に男女共同参画推進条例案を上程することになっているが、バックラッシュ側の動きが強くなっているので市民のみなさまにも協力して欲しい」というFAXがすてっぷの事務局長・山本端枝さんから私に届きました。山本さんは、豊中市からの派遣職員です。

 その前から、男女の役割分担固定化に肯定的なグループが、すてっぷを攻撃したり三井館長の企画を批判し攻撃するビラがまいていることは、すてっぷを利用している市民の多くが知っていました。そこで、危機感を感じていた市民は、すてっぷからの呼びかけに応じて集まりました。70人近かったと思います。集まった市民はみな、2003年3月議会で条例が可決されることを強く望んでいましたので、バックラッシュ側の攻撃によって条例上程が阻止されてはたまらないと考え、その場で「男女共同参画社会をつくる豊中連絡会」(以下連絡会)を立ち上げました。

 2003年に入って、「連絡会」では条例の制定を求める要望書の提出、ビラまき、条例の学習会、署名集めなどの行動を勢力的にはじめました。豊中市人権文化部との話し合いも持ちました。しかし、3月議会に条例案は上程されず、当時の部長(後、定年退職)は私たち「連絡会」のメンバーに対して、「バックラッシュの力大きかった」と言いました。

 この行政側の態度が5〜6月頃から変わっていきました。

 「連絡会」は、2003年4月の市議会議員選挙前に候補者全員に男女共同参画社会に関するアンケートをしました。そのアンケート結果を広く市民に知ってもらうためにすてっぷの展示コーナーで展示しました。

 選挙後の6月3日夕方、豊中市役所で、私たちは、市側との話し合いの場を持ちました。本郷和平部長、武井順子課長、米田禮子主幹がいました。市側は「連絡会」に対して次のようなことを言いました。

「アンケートをしたことについて、不快感を持つ議員が多かった」
「寝ている子を起こすようなことはやめてほしい」
「あちら側(市の条例案に反対する“市民”)と足して2で割って出せという意見もある」
「中立の議員を含めて、(「連絡会」がやってきたことは)過激と映っている」
「3月議会の前から条例案はさわっていない」
「オフレコだが、条例案は金庫にいれたままだ」

 要するに、市側は「連絡会」の活動に対して、バックラッシュ側を刺激するだけだから行動を押さえるように、というようなことを言ったのです。

 2003年9月、3月制定予定だった男女共同参画推進条例が半年遅れて成立しました。

 しばらくして、三井館長からどうも最近、山本事務局長の様子がおかしいというようなことを聞いた時、三井さんの館長継続が危ないのではないか、市はバックラッシュ側と取引をしたのではないか、と私は不安を感じました。

「連絡会」と人権文化部との話し合いを続けてきた中で市の態度が変化していったこと、三井館長が館長出前講座で言ってもいないことを言ったという噂が流れ、バックラッシュ側がその噂を執拗に市に対して問題にしていることを聞いていましたので、三井さんは立場上くわしいことは話しませんでしたが、それがかえって市に対する不信感につながりました。

 2003年11月27日、私たちは三井さんの館長再任を要望する市民の文書(以下「要望書」)を一色市長あてに提出しました。この要望書は第一審に出しています。

 時間がなかったのでごく身近な人たちに声をかけただけでしたが、25名もの人が賛同して名前を明記することを承諾してくれたのは、バックラッシュの動きに強い危機感を持っていたからでした。

 要望書は市民3名で市役所に持っていきました。そのとき、本郷部長は、すてっぷの組織変更をして「国際交流センター」のようにする(館長を廃しして事務局長が兼務)のが理想だ、というような組織変更の問題を私たちに話しました。これを聞いて、私たちは非常に驚いたのを記憶しています。

 12月25日、豊中市長宛(11月27日)に出した要望書と同じものを、今度は(財)とよなか男女共同参画推進財団の理事長宛に出しました。

 その頃には、市が次期館長職を依頼した人がいるというような噂が私の耳に入ってきました。一方で、すてっぷの労働組合に対しては、来年以降すてっぷには館長は置かないと説明があったということも聞こえてきました。

 2004年1月12日、(財)とよなか男女共同参画推進財団の理事各位宛に、このような重大な問題を理事会ではどのように審議なされてきたのか、を問う要望書を出しました。3回目の要望書です。同時にこの間の出来事を説明して、豊中市に抗議し、三井館長続投に賛同する声を豊中市に送って! とメールで友人知人によびかけました。

 この要望書提出に賛同して名前を出してくれた人は28名でした。事態がくるくる変わるために28名全員で話しあう機会も無く、事情説明が要望書提出後になってしまうこともありましたが、3回目の要望書を出すまでは、賛同者から異論はまったく出ませんでした。

 2004年1月29日、臨時理事会(2月1日)で館長を常勤にして事務局次長兼任にするという組織変更について話し合われるということなので、再度、三井さんが館長を引き受けてくれることを望んでいるという要望書を財団理事各位宛に出しました。このときも日が迫っていましたので他のメンバーと相談する時間がなかったので、私が文書をつくって送りました。

 同じ1月29日、私がこの問題について投稿した『女性ニューズ』(2006年末廃刊)の記事に対して訂正記事を書くように、とまるで恫喝するような電話を市の人権文化部の本郷部長と男女共同参画課の武井課長の二人から受けました。この時の模様は第1審でも陳述しました。

 1月30日の夜、要望書の賛同者の一人Uさんから事後承諾だったことを批判する電話が入りました。事前に説明する時間がなくて話し合えなかったことをわびて、事情を説明しました。しかし、Uさんは「1月29日付けの要望書を撤回して欲しい。館長が必ずしも三井さんでないといけないとは思っていない。山本事務局長とは喧嘩したくない」と言い、それまでとは明らかに調子が変わっていました。この人は、数年前に豊中のバックラッシュ側の中心人物である元市議会議員のことを最初に私に教えてくれた人でした。

 1月31日の深夜、要望書の撤回を求めてきたUさんが、要望書の撤回を和田さんに求めたが聞き入れられなかったので要望書からの名前の削除を求めるというメールを「連絡会」のMLに流しました。そしてどうするかの返事は2月1日(日曜日)の午前9時までにするように、返事がない時は名前の削除を求める要望書を出します、という内容でした。

 私は、2月1日(日曜日)の早朝からUさんのメール対応に追われることになりました。要望書行動の中心メンバーで要望書の撤回はしないという確認をして、1月29日付けの要望書については全員の同意ではなかった。というお詫びの文書を理事各位宛に出すことにし、それをすてっぷに持って行きました。

 要望書から名前を削除するようにとUさんからさそわれて要望書行動から降りたメンバーの一人に理由をたずねたところ、「あの人らについて行ったら怖いから降りようと誘われた」ということでした。

 また別の人からは「山本さん(山本瑞枝事務局長)から要望書のこと知っていますか、と直接電話があった」ということも聞きました。

 この事件をきっかけに、三井館長留任に関する行動の自己規制を強要する意見や、行動に慎重になる人の声が大きくなっていきました。

 さらに2月1日の理事会が終わった直後から、要望書の連絡先を引き受けてくれた山田千秋さんのところに、山本瑞枝事務局長から、高橋叡子理事長の指示だということで、数回にわたって夜遅く(ほとんど深夜)に電話(最終的には2月9日の深夜)があって、1月29日に出した要望書の賛同者の名前を執拗にたずねてきました。

 3月に入って、三井さんが館長採用試験の結果不合格となったことを知りました。

 私たちは新たに「すてっぷ利用者の会」を作って、①市からも評価を受けていた三井さんがなぜ新館長に選ばれなかったのか、②公務員である山本瑞枝事務局長の深夜の電話行為は市民への思想調査であり、電話を受けた山田さんの精神的苦痛ははかりしれず人権侵害ではないか、という2点を中心に理事長、理事あてに3回にわたり質問状を出しました。

理事長からの回答は、

1、館長不合格の理由はプライバシーに関わる問題であり、回答できない。
2、要望書について財団が把握している事実との間に齟齬がみられる。

という簡単な返事で、わたしたちが問うた、すてっぷの山本事務局長の行為は市民運動への介入ではないか、また市民への深夜の電話は人権問題ではないか、といった質問には答えてきませんでした。

 私たちはあきらめずに、この後も同じ問題で2回質問状を出しましたが、納得のいく回答は得られませんでした。

 「要望書」を出す行為は市民の当然の権利です。しかし市民グループがいくら要望書を出しても行政側がその要望を受け入れて具体的に取り組んだ例がほとんどないということは、市民活動をしている人なら誰もが経験していることです。行政にとって市民の要望書など紙切れにすぎないのです。「要望書はなんぼ出してくれてもいいのよ」と私はかつて武井課長から軽く言われたことがありました。

 行政にとってその程度にすぎない市民の「要望書」行動に対して、なぜ2004年1月、豊中市はあのように神経質に市民に介入をしてきたのか。市民から情報を聞き出し、市民運動の弾圧としか思えない電話による恫喝、市民の私生活を省みない深夜の電話。この一連の出来事から見えてくるのは、どのようなことをしてでも三井館長を解雇しなければならない理由―すなわち、バックラッシュとの密約があったからだ、と確信しています。

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