陳 述 書

2006年6月21日
和田 明子

私は、豊中駅の近くで、女のスペース「フリーク」(コーヒーショップ)を1982年の秋から開いています。

80年代当時は、まだ各地に女性センターが存在しなかった頃で、「フリーク」に集まるお客の中で女性の問題に関心を持つ仲間たちと、さまざまなイベントや学習会などに取り組んできました。その成果を、何冊かの冊子にして出版もしました。そのため、豊中市からも何度か女性問題の講師として呼んでいただいたことがあります。また、市の女性政策課からアドバイスを求められたこともあります。

1995年12月に、総合的な女性センターのあり方を検討し、提言をする「豊中市女性センター基本構想委員会」が、市の音頭とりで発足しました。その委員会に私も市民委員として参加しました。これが後の「とよなか男女共同参画推進センター・すてっぷ」(以下「すてっぷ」)との関わりの始まりでした。

2000年11月17日に行われた「すてっぷ」開所式にも出席しました。その場に館長である三井マリ子さんの姿がなかったことが(注1)、今も強く印象に残っています。

以上のように、豊中市とは因縁浅からぬ私です。

さて今般の裁判で、本郷和平部長の「証人調書」、山本瑞枝事務局長の「陳述書」の中で、私に関わる陳述や記述がありますが、事実と異なる点がありますので述べさせていただきます。

1 本郷「証人調書」A
 p33、最後から2行目〜p34、2行目
 「平成16年の1月23日に、市のほうに和田さんほか2名、3名の方が来られまして、市民ですけども、三井さんが雇止めになると
 いうことのようだが、その辺の事情を聞きたいということで、来られました」

2004年1月23日、私たち市民3名は、本郷部長、武井課長と三井館長のことで話し合いを持ちましたが、場所は、「生活情報センターくらしかん」のミーティングルームです。場所、日時について指定してきたのは、市の方でした。私たちが押しかけていったのではありません。
話の内容は、財政難のなかで、組織変更をして非常勤館長を常勤館長にするのは、むしろ「すてっぷ」へのテコ入れなのだ。三井さんには何回か話をしているとも言ってました。 最後に本郷部長が「もうマドンナはいらない」と言ったので、「三井さんはマドンナだったのですか」と返すと、「部長、それはちょっと・・」と武井課長が本郷部長をたしなめていました。

2 本郷「証人調書」B
 p34、12行目「わかったということで帰られました」
 p34,18行目「少なくとも私はわかったというふうに受け止めて・・・」

私が「わかった」といったとすれば、豊中市の説明はわかったという意味です。本郷証人が言っているように、「バックラッシュの影響で雇止めになるとか、そういうことじゃありませんというふうに説明」したことについて私たちが納得した、という意味は、まったくありませんでした。

なぜ、「バックラッシュとは関係ない」と言った豊中市の説明に私たちが納得しなかったかといえば、バックラッシュについて一市民として知った一連の事実が心にひっかかっていたからです。

2002年の秋、三井さんが企画した「世界のフェミニズム講座」の最後の講座に(10月11日)に私は講師の1人として参加しました。当日「すてっぷ」へ行くと、「今日はバックラッシュが来るかもしれない」というのを、複数の人から聞きました。「すてっぷ」がバックラッシュから攻撃されていて、三井さんを名指しで中傷するビラがまかれていることは知っていましたが、三井さんやすてっぷがきびしい状況にあることをはじめて実感することになりました。

2002年12月6日(金)の深夜に「男女共同参画社会をつくる市民交流会への参加のお願い」というFAXが、「すてっぷ」事務局長・山本瑞枝さんから届きました。そこには「すてっぷ」がバックラッシュからどのような攻撃にあっているかがはっきり書かれていました。(このFAXは、裁判が始まってから三井さんにコピーをあげたところ、甲54号証として提出されています)

2002年12月9日、「すてっぷ」のセミナー室で、第一回市民交流会の集まりがありました。私も3日前のFAXの山本事務局長の「お願い」に応じて参加しました。

その交流会では、市は3月(2003年)議会に男女共同参画条例の上程を目指して準備をしているが、バックラッシュの動きが強くなってきているので、市民にも協力してもらいたい、という話が中心でした。交流会に参加した人たちは、日頃からバックラシュの動きに危機感を持っていた人たちでしたので、その日に「男女共同参画社会をつくる豊中連絡会」(以下「連絡会」)を立ち上げました。

「連絡会」では、すべての人の人権が尊重される条例の制定に向けて、素早く要望書の提出、ビラまき、学習会、署名集め、などの行動を始めました。人権文化部とも何度か話しあいを持ちました。

ところが、市の態度はしだいに変わってきました。やがて市からは、バックラッシュを刺激するだけだからと、行動を押さえるように言われました。また私たちの行動を迷惑に思っている、というようなことも言われました。

こうした市の明らかな変化に、今まで私たちがしてきたのは何だったのか、とむなしくなったこともありました。

2003年の秋ごろ、三井さんから、どうも最近様子が変だというようなことを聞いた時、市はバックラッシュ側と条例のために取引したのではないか、と私は思いました。そう思ったのは、「連絡会」を通じて、人権文化部と話し合いを続けてきた中で市の態度が変化していることを感じたからでした。また行政との長い関係のなかで私が一市民として経験した市への不信感があったこととも無縁ではありません。

当時、三井さんは、いつも守秘義務があるから、守秘義務があるから、と詳しいことを話しませんでした。まるで市の規則にがんじがらめにされているようで、それがかえって市への不信感につながりました。

2003年11月27日、私たちは三井さんの館長再任を要望する市民の文書(以下「要望書」)を一色市長あてに提出しました。時間がなかったのでごく身近な人たちに声をかけただけでしたが、25名の人が賛同したのは、バックラシュの動きに強い危機感を持っていたからです。

証拠として、ここにその「要望書」(2003年11月27日付け)を「添付書類1」として添えます。

こうした経過があって、2004年1月23日に市の話を聞いたわけです。1時間ほどの説明で市の言い分を私たちが納得・了解するわけがありません。

3 本郷「証人調書」C  p34、14行目〜p35、2行目 (乙27号証の記事について)

「女性ニューズ」の記事(乙27号証)についての電話のやりとりについては、メモが残っております。2004年1月28日午後1時、本郷部長より私に次のような電話がありました。

本郷:1月20日付の女性ニューズの記事は、事実とちがう点が幾つかある。23日にお会いして説明しましたね。
本郷:感じたこと、思ったことを書くのは個人の自由だが、事実とちがうことを書かれて市は困っている。和田さんの方で事実と違うという訂正記事を書いて欲しい。
本郷:三井さんしか知らない情報が多い。
本郷:この会のメンバーは何人いるのか。
本郷:抗議が殺到してこまっている。いま自分の書いている本に引用させてもらうという人もいる。この新聞は全国で読まれているので影響が大だ。豊中市が三井さんをバックラッシュしている印象。 
和田:そちらの方で反論を書いてください。
本郷:泥仕合になるので市としては書けない。どのような対応ができるか考えさしてもら う。

翌日29日午前中、こんどは武井順子課長から訂正記事を書くように、と電話がありました。出かける予定がありましたので、他のメンバーと相談してこちらから連絡します、と言うと、「他にメンバーがいるんですか」と不信そうに言われました。

その日の午後に、私の方から市役所に電話をいれました。武井課長は次のようなことを私に言いました。

武井:今回のこと、どのように責任とられるのですか。
武井:この記事が全国の市町村にどのような影響を及ぼしているかということです。三井さんのためを思ってやってはるんやろうけどはっきり言って三井さんにとってマイナスですよ。
和田:(私は「訂正記事は書きませんので市のほうで記事を書いてください」言いました。そして後は私たち市民の立場と私たちの心情を説明しました。私たちは三井さんとイコールではない。市民の立場で市民として行動をしている。「すてっぷ」を立ち上げる前に100人近い女たちが関わったが、なぜ多くの女たちが「すてっぷ」がオープンしてから引いてしまったのか考えてほしい、市が 市民とのパートナーシップという、いかにも民主的な風を装った言葉を使って、市民を利用して都合が悪くなると排除してきたそうした市民の経験が、三井さんに対しても市は同じことをやりかねないと判断したのだ。
ざっと以上のようなことを説明しました。
武井:そんな古いことなんの関係があるんですか。(女性ニューズに書いてある)この会のメンバーを教えてもらえますか。(三井館長続投の)要望書に書いていたメンバーと違うんですか。
武井:この記事を書いたのは三井さんにとって非常にマイナスでしたね、と言うことを申し上げておきます。

以上が、市が私にかけてきた電話の内容です。

4 山本瑞枝事務局長「陳述書」(丙第25号証)
 p20、下から3行目〜p21、4行目 
「平成16年(2004年)1月12日になって、理事全員に要望書が郵送されました。その内容は、『館長の留任を市長宛、理事長宛に要望した。その後、12月初め頃、すてっぷの館長職を依頼された人がいること、年末に労働組合へ来年度から館長を置かないと説明があったことを聞いた。館長に対する人権侵害であり、理事会軽視である』とありました。この文書には28人の記名がありましたが、その後、28人全員の同意を得て発送されたものではなく、事後承諾を求められた市民がいることが判明しました。」

三井館長の続投を要望して、私たちは4通の要望書を出しました。

   第1通目 豊中市長 一色貞輝宛  (2003年11月27日)
   第2通目 財団法人とよなか男女共同参画推進財団
         理事長 高橋 叡子宛  (2003年12月25日)
   第3通目 財団法人とよなか男女共同参画推進財団
         理事各位宛   (2004年1月12日)
   第4通目 財団法人とよなか男女共同参画推進財団
         理事各位宛   (2004年1月29日)

                     

したがって、2004年1月12日までの要望書は3通あり、3通とも賛同者全員の同意を得て発送しました。その後1月29日、私たちは4通目の要望書を出しました。この4通目の賛同者に対して、豊中市から「三井さんの問題はすてっぷの組織強化なのだ」というような度重なる“説得”があって、実名を出して同意を示した市民に脱落者が出たのでした。

その結果、4通目の要望書の賛同者の名の中に「この要望書には同意していない」という人が出てきたのです。

しかし、山本事務局長のこの文章は、まるで要望書全部が市民の同意を得てない、ような書きかたをしています。それは事実と違います。

4通中3通まで、要望書の記名は全員の同意を得たものです。その1通は、3ページに書いた「添付書類1」です。2通目と3通目は同文ですので、3通目の「要望書」(2004年1月12日付け)を「添付書類2」として添えます。

 以上

    添付書類 1   「要望書」(2003年11月27日付け)(注2)
    添付書類 2   「要望書」(2004年1月12日付け)

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注1 三井マリ子館長は、会場座席一覧に三井館長席がなかったので、市から出向していた米田禮子事務局長(当時)に尋ねた。すると彼女から「(式典には)出なくていいです」と言われ、映写室に行って式典を見たことが裁判で証言されている(三井マリ子『陳述書』)。

注2 要望書の添付は省略。

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