陳 述 書

2007年12月11日
山田 千秋

1 バックラッシュ攻撃にさらされたすてっぷ事務局長が市民にSOS

 豊中市男女共同参画推進センターすてっぷが男女平等に反対する勢力から攻撃されていると知ったのは、2002年12月のことだった。

 当時の山本瑞枝事務局長から市民にFAXでSOSが出されたので、総勢50人あまりの女性市民が急遽すてっぷに駆けつけたのだった。

 山本事務局長は蒼白の表情で、すてっぷが「バックラッシュ(との表現を使った)の攻撃を受けていて大変だ。このままでは来年3月議会に上程する男女共同参画推進条例もどうなるかわからない。条例はなんとしてでも答申に沿ったままで通さなければならない。なんとか市民の力で条例制定に力を貸してほしい」という内容だった。山本事務局長バックラッシュという表現を冠した資料も市民に配布した。

 その切羽つまった訴えを受けて、参加した市民たちはその場で協議し、「男女共同参画社会をつくる豊中連絡会」(以後、「連絡会」とする)なる団体を発足させた。目的は審議会答申に添った条例制定とした。すぐに活動方針を話し合い、(1)署名を集め2月中に答申に沿った条例制定の要望書を市長、議長あてに提出すること、(2)議員へのロビー活動、(3)市民への啓発活動 などがその場で決められた。

 山本事務局長は「連絡会」のメーリングリストに参加し、メンバーと頻繁に情報交換したり、「つくる会」の会合場所をすてっぷにするような便宜をはかったりと、熱心に活動を支えていた。私たちの会議の様子も、頻繁に見にきていた。

 私たち「連絡会」は署名集めを必死で行い、2か月間で1000筆を集めた。そして、要望書とともに市長、議長に届けた。豊中市人権文化部から要請を受けた市教組や市職などの労働組合も、「連絡会」と同様、要望書を提出する動きもあった。

 一方、我々「連絡会」の署名運動の後を追うかのように、答申に沿った条例制定を阻止しようとする「男女共同参画社会を考える豊中市民の会」というまぎらわしい名称の団体(代表朝生万里子、バックラッシュ勢力)も「適正な条例を求める署名運動」を開始した。

 前後するが、2002年12月議会に、答申に沿う条例案に反対する北川悟司議員(当時)が議会質問をするとのことで、「連絡会」のメンバー10人ほどで傍聴に出かけた。北川議員はすてっぷライブラリーの図書に言及し、「このような主婦を否定し、離婚を奨励し、家庭を破壊する図書は撤去するべきと考える」というような「焚書」発言があり、「まるで戦前の思想弾圧だ」と背筋が凍る思いがした。

 氏は前の議会質問でも、学校の性教育を非難したり、すてっぷの事業や運営について市当局がもっと指導監督すべき、というような発言をしていた議員であることを私たちは知っていた。とりわけ氏は、以前から小中学校での卒・入学式の日の丸、君が代問題で学校や市教委に激しく圧力をかけ、議会でも日の丸、君が代実施の詳細を質問したりするなど、度々、人権行政への攻撃を続けてきた議員であることを認識していた私は、恐怖が募った。

 2003年1月の成人式の日、たまたま会場となっていた市民会館前を通ったときのこと、会場前で数人の見なれない中年男性数人がビラまきをしていた。私は、珍しい光景に足をとめ、ビラを受け取った。そのビラは「ジェンダーフリーはフリーセックス!」という、02年12月に山本事務局長から配られたバックラッシュ勢力のビラだった。豊中が彼らのターゲットにされていると感じ、ますます恐ろしい思いがした。

 2003年3月議会の直前、議会に審議会答申にそった条例の制定をというロビー活動のために、「連絡会」メンバー数人で「新政とよなか」という会派を訪れたときのこと。その会派の議員(清水議員だったと思う)が、私たちに対して、「時期が悪い、選挙が迫っている、支持者からも条例が心配や言う人がいる、街宣車がきてビラまいたりしているからみんな不安がってる。拙速はいかん。9月には通すからなんとか辛抱してくださいよ」というようなことを言った。公明党にもロビー活動をしたが、そこでもそのようなことを言われたと思う。公明党は女性議員が審議会答申にそった条例制定に熱心であったが、その頃はトーンダウンしていたように思う。

2 条例上程断念の後 変化してきた人権文化部の態度

 2003年2月22日ごろ、3月議会への条例上程は無理と判断した人権文化部から、我々「連絡会」に説明があるという理由で、すてっぷに来てくださいという連絡が市からはいった。

 私たちは、すてっぷの会議室に集まった。その席上、人権文化部長は「上程を断念する。バックラッシュ勢力の動きが背景にある。苦渋の決断だ。9月には条例原案(答申に沿ったもの)のまま上程すると誓うのでなんとか了承してほしい」と私たち市民の前で明言した(このあたりは、すでに第1審に提出している山田千秋「陳述書1」参照)。

 結局2003年3月議会への条例上程は見送られ、9月議会まで延ばされることになった。

 「連絡会」は、9月議会に上程されるにしても、条例案の中身が後退するのではないかとの危惧をいだき、それ以降も、毎月の学習会、駅頭ビラまきなど活発な活動を続けていた。

 2003年4月は市議会選挙だった。

 「連絡会」は、選挙の候補者に対して条例に関する「公開質問状」を出し、候補者からの回答結果をすてっぷに掲示した。審議会答申や条例案についての展示もあわせて行い、北川議員などの圧力によって条例案が一歩も交代することのないよう精一杯活動を展開していた。

 そのような市民の活発な動きとはうらはらに、山本事務局長や市の人権文化部女性政策課長などとの友好的な関係が徐々に薄れ、市からあまり情報が入らなくなってきた。そこで、私たちは、2003年6月のある日(日は今思い出せないが)、あと3ヶ月に迫った条例上程は一体どのような状況にあるのか市の担当者に確かめるべく、こちらから求めて市役所で会合をもった。

 「連絡会」側は、KZ代表、KM、KN、AW、山田千秋ほか6人ほどいた。市側は、本郷和平部長、武井順子課長、米田禮子係長ほかが出席した。

 市の説明は「条例案は原案のまま金庫に保管して改変などできないような状況にある。安心してほしい」(米田)という内容だった。昨年暮れには切羽つまって市民にすがり、条例を通させてほしい、というようなことを必死に頼んでおきながら、それをそのまま受けとめて必死で全力で活動してきた市民に「もう心配しないで任せてもらっていいから」というようなトーンだった。それを聞いた私たちは、大変違和感を覚えた。

 その上、本郷部長からは「公開質問状を出したり、議会に押しかけたりされて、議員からも苦情がある。あまり、やりすぎてもらっても迷惑する」というような発言があった。さらに驚くとともに、「市民をただ利用しただけなのか」とすら思うほどの非礼な態度であったことにあきれてしまったことを鮮明に記憶している。市の態度が豹変したと感じた瞬間だった。

 一方、「バックラッシュ勢力」の動きは、豊中で山谷えり子議員などの講演会を開催するなど、活発だった。

 北川議員からは条例修正案なるものが議会に出され、我々の側にも緊張が走った。宇部市の男女共同参画条例を賞賛する北川議員の修正案が、何かの拍子に通るようなことになれば、と強い危機感をもった。

3 条例制定なるも、三井館長排除の動きが明らかに

 こうして9月議会が始まり、男女共同参画推進条例案は審議会答申に沿ったかたちで制定された。北川議員は修正案を出していたようだが、結局賛成にまわった。

 総務委員会審議の当日、私たちはその模様を議会の別室でモニター視聴していた。北川議員は原案に対し、いくつか意見を述べていたが、採決では賛成にまわった。北川議員を支持する朝生万里子氏やその仲間たちも、私たちと同じ部屋にいて、私たちと同じテレビ画面で視聴していた。

 条例案が可決され、委員会閉会のあとすぐに北川議員は視聴室に顔を見せ、朝生氏たち支持者と握手して談笑していた。

 連絡会の他のメンバーも、委員会の日か本会議の日かに、北川議員が朝生氏たち数人の女性と連れ立って、市役所付近を歩いていたのを目撃している。

 本会議採決を経て、条例が制定されたものの、私は、釈然としない感じを抱いた。あれほど、議会内外ですてっぷや条例案を攻撃してきた北川議員が、なぜ、攻撃してきた条例案と同じ内容の条例案に賛成する側にまわったのだろう? なんのための6ヶ月延長だったのだろう? 一体なにがあったのだろう?

 釈然としないまま、それからしばらくして、三井館長があぶない、という知らせを受けた私は、三井館長継続要望運動に突入することになった。

 三井館更新継続要望書は、2003年11月27日は市長あて、12月25日、2004年1月12日、1月29日はすてっぷ財団理事長あて、計4回提出した。

4 山本事務局長による、館長継続を要望する市民運動の切り崩し

 その間、不可解なことがあった。

 はじめ、三井館長更新継続要望に賛同する人が25人(2回目以降28人)集まり、連名で出していた。毎回、三井続投を求める内容であったが、2回目までは27人に要望書を見てもらって了解を得た上で出していた。3回目は状況が切迫していて、全員に了解を得る時間的余裕がなく、三井続投を求める同じ内容なので、とれる人には事前に了解をとり、とれない人には事後承諾で、全員の連名で提出した。4回目も状況切迫で急遽要望書を出すことになり、全員に事前承諾をとれなかったものの、三井続投を求めることが全員の意思と判断し提出した(事後に全員に承諾をとった)。

 ところが、要望書を提出した翌日に、賛同者の一人MUさんから1月29日付け要望書の撤回を求める電話がAWさんに入った。その撤回要求を断ると、海外渡航中の人を含めMUさんと仲間6人が一斉に脱退した。この脱退の影には、山本事務局長から賛同人に個別に電話があり、賛同したことについて問い合わせたりする行動があったことが後に明らかになった。市民運動の切り崩し行為が市の公務員によって行われていたのである。しかし、残る22人は、山本事務局長の揺さぶりや、MUさんの撤回要求に応じることなく、以降も三井館長継続運動を続けるに至った。

 2004年2月第1週ごろ、ついに要望書連絡先となっていた私に夜半、山本事務局長から電話が入った。

 内容は「1月29日に出された要望書の賛同人の中で、承諾なしで出されたという人がいるので、正確な賛同者の名前を教えてほしい」というものだった。「答えられない」と言うと、その後も数回にわたって深夜(夜11時、時には11時すぎ)かかってきたのだった。4回目だったと思うが、「理事長の命を受けて賛同者の名前を確認している」との山本事務局長の説明に対し、理事長から直接文書で質問状を出すようにと要求したところ「理事長と相談する」と言ったきり、その後、山本事務局長からの電話攻勢は途絶えた。

 深夜、暗い切羽つまった声で賛同者の名前を明かせ、と迫る山本事務局長。

 市職員のとった行動として尋常ではないものであり、三井館長継続を求める市民の動き、やそれを正当に評価しようとする一部理事の動向に並々ならぬ神経を使っていたのではないか。

 要望書の賛同者を明かせと深夜の電話で、市民に迫るなどという行為は公務員として許されるものではない。今思うと、あのとき、理事会に出向き、三井館長続投を求める市民の動きを封じようとする市側の動きに強く抗議すべきだったと強く悔やまれる。

 陳述書を書きながら当時を想起した今、改めて北川悟司議員が「対行政暴力の行使者だったこと」、「その北川議員とその仲間であるバックラッシュ勢力に豊中市は屈したのだ、それこそが真実だ」と、その場に居合わせた市民として確信する。

 三井館長がいなくなり、バックラッシュ勢力によるすてっぷへの嫌がらせは激減し、今や皆無と聞く。バックラッシュ勢力である「豊中教育オンブッド」の活動報告 によれば、三井さんが雇い止めされた2006年3月31日以降、06年8月にすてっぷ桂容子館長と下平男女共同参画社会推進課課長補佐の発言に対する質問状を出したのみ。2007年度からはすてっぷ事業に関する活動は1件もない。北川議員やその他のバックラッシュ議員によるすてっぷや女性政策を非難する議会質問もなくなった。

 すてっぷの事業は、女性への差別や暴力をなくすための啓発事業やエンパワメント、女性の権利擁護のための企画が見られない。すてっぷを訪れる人も少なく、閑散としている。その一方で、本年8月、山谷えり子氏に何やら説明しながらすてっぷ視察をしている北川氏の写真が、「教育再生地方議員百人と市民の会」のホームページ表紙を飾っている 。まるでバックラッシュ勢力によるすてっぷ凱旋のように見える(添付書類)。こうした実態こそが、バックラッシュ勢力に豊中市が屈服した何よりの証拠ではないだろうか。

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