提訴3年目の真実

原告  三井マリ子 (豊中市男女共同参画推進センター「すてっぷ」初代館長)



2006年10月30日の法廷

 「(男女平等の推進を阻もうとする)バックラッシュの攻撃に市は屈したんだと私は思っております。私自身はそういうバックラッシュに屈したくもないし、バックラッシュに負けたくないと思いました」

 原告側尋問の最後に私はこう答えました。この後、被告側弁護士からの尋問が長く続きました。背中に傍聴席の方から拍手が聞こえてきました。私は、裁判長の真正面に置かれた証言席から立ち上がり、原告弁護団の並ぶ席の一番端に移りました。「次回は12月25日午後4時30分です」と裁判長が言い渡しました。

 2006年10月30日(月)、午後5時すぎ。大阪地方裁判所の大法廷。4時間にわたって続けられた私への尋問が終わった瞬間です。

 この日のために原告側弁護団と私は準備を重ねました。原告側弁護団からの尋問に加え、被告側弁護団からの尋問にそなえて、これまで裁判所に出された膨大な文書と格闘する日々でした。

 この日の尋問に向けて、被告豊中市と財団はさらに新たな証拠書類を出してきました。10月28日の夜、そのコピーを手渡された私の疲労とストレスはピークに達していました。

 その証拠書類の中には、15年ほど前に報道された私に関する4種類の新聞記事までありました。東京都議だったときに公費ミスコンに反対したことを報道した大きな顔写真入り記事が2点、社会党を離党したときの記事が2点。どれも、私に対して否定的なコメントが載っていました。私の弁護団からは、「裁判の原告が女性だと、こういうトラブルメーカーなのだ、というように持っていこうとすることが多いのです。あまり気にしないで」と言われました。そうは言っても、私は、「こういう昔の私の記事を持ってきて何を尋問するのだろうか」と非常に気になりました。

 さらに、被告側から思いもよらぬ攻撃もありました。

 私たちは、豊中市が理事会と評議員会の会議録(広い意味の議事録)を“改ざん”したのではないかと疑っていたのですが、「それは三井館長が了承していた」などとする文書も出してきたのです。これは、豊中市の男女共同参画推進条例案に反対や攻撃があったとする会議録が、削除・変更されていたことがわかったため、前回、被告財団理事長に「誰がこういうことをしたと思うか」と聞いたところ、理事長は「事務局長」と答えていたのです。事務局長とは、市の派遣職員で私の部下にあたります。ところが、被告側は、新たな書類で、この“改ざん”を私に責任転嫁しようとする戦術に出てきたのでした。

 このような証拠書類を目の前にして、私の心は動揺しました。しかし、これまで文書で主張してきたことを裁判官に直接聞いてもらえる大事な場です。わからないことはわからないと正直に言えばいいんだ、と何度も自分に言い聞かせて法廷に臨みました。

 こうして、大阪地裁に提訴してから2年が過ぎ、証人尋問の最終段階とされていた原告本人尋問が終了しました。

全国公募の豊中市男女共同参画センター館長に選ばれて

 「館長雇止め・バックラッシュ裁判」は、39人の弁護団、800人近い賛同者を擁し、3年目を迎えようとしています。

 初めてこの裁判を知る方がほとんどだと思いますので、内容と意義をまとめてみます。

 2004年3月、大阪府豊中市は、私の職場だった「すてっぷ」から、館長である私を排除しました。すてっぷとは、豊中市が駅前に50億円以上の公費を投じて建設した男女共同参画推進センターのことです。

 2000年春、私は、豊中市に「すてっぷ」という名の男女平等政策の拠点ができ、その初代館長が全国公募されているのを知りました。

 20代から男女平等の運動に参加し、30代で東京都議会議員として行政に男女平等の推進施策を盛り込み、40代では、EU(欧州連合)や北欧の男女平等施策を日本に紹介する著作を出してきた私にとって、「この仕事は私にぴったり」と思いました。1999年、全会一致で可決された国の男女共同参画社会基本法を地域にひろめることができる「とてもやりがいのある仕事」、とも感じました。

 私は、応募要綱に従って書類を整え応募しました。60人以上の応募者がいたそうですが、幸いにも私が選ばれて、初代館長に就任いたしました。当時、公募で選ばれた女性センターの館長は日本で私ひとりということでした。

 週22.5時間の非常勤ではありましたが、与えられた時間と権限をフルに使って最大限の努力をしました。使命感に燃えた多くのスタッフとのチームワークもすばらしいものでした。その結果、すてっぷの名は関西ばかりか全国のメディアに取り上げられ、広く知られるようになりました。

組織体制変更と非常勤館長廃止

 ところが、2004年2月1日、豊中市は臨時に、すてっぷ理事会を開き、「組織体制強化」と称する改革案を提案し、通しました。その中身は「2004年4月から非常勤館長を廃止し、館長は事務局長兼務の常勤職とする」というものでした。新館長は公募とせず、理事長の任命する採用選考委員会で選考すること、採用選考委員会員は理事から5人選出されることも決まりました。

 私の身分に危機がせまっていることはなんとなく感じていたのですが、とりあえず採用試験を受けさせてほしいと申し入れ、これは認められました。

 当時の私は、多くの事業を予定どおり遂行しなければならない中、私の知らないところで決められて、小出しに伝えられる組織体制変更案なる情報に翻弄される日々でした。重要な情報から阻害されているという憤り、首を切られるかもしれないという恐怖心、部下である事務局長から嘘をつかれてきたことの屈辱感から、眠れない夜をすごしました。ストレスでからだ中に湿疹ができ、赤く痕があちこちに残るようになりました。

 しかし、「まだ絶望するのは早い。理事の良心に賭けよう」――こう思って2004年2月22日の採用面接試験に臨んだのでした。

 しかし、豊中市は2003年秋頃から極秘に後任館長の人選を進め、候補者リストを作成し、市長の承諾を得て、一人ひとり打診をしていました。10人ほどの候補者リストに従って、市の人権文化部長と男女共同参画推進課長が、各人に直接訪問し、「4月からすてっぷの館長に就任をお願いしたい」と要請していたのです。その際、誰もが疑問に抱く現職館長の私については、「三井さんは、常勤は無理なので…」「三井さんは当初から3年から3年半という約束ですから…」などと嘘の説明していたのです。

 そして、私が受けた面接試験の2ヶ月前(2003年12月)には、すでに次期館長を決めていました。面接試験は茶番でした。しかし、それをはっきり知ったのは、その試験が終わってからでした。 面接試験の数日後、茶封筒が部下である事務局長から私に手渡されました。私はトイレに行ってそっと封筒を開きました。そこには「不合格」と書かれた一枚の紙がはいっていました。こうして、2004年3月31日、私はすてっぷ館長の座を追われました。

なぜ豊中市は突如私を辞めさせたか

 なぜ豊中市は、私を排除したのか。狙いは2つあると思います。

 2002年秋頃から、「すてっぷ」や私への攻撃が目立つようになりました。市議会議員の度重なる嫌がらせ質問、すてっぷ窓口への妨害行為、市役所周辺での悪質なビラ撒き、講演会における難癖、根も葉もない噂の流布……こうした攻撃をする勢力は、男女平等を敵視し、旧来の固定的性別役割にこだわります。そこで主に男女共同参画を進める行政をターゲットに、全国的組織を使って圧力をかけてきます。

 このような現象は、世界的にバックラッシュと呼ばれています。反動・逆流という意味の英語ですが、米国における女性解放への組織的攻撃に関するベストセラー『バックラッシュ』(スーザン・ファルディ 1991)により男女平等への反動として使われるようになったというのが定説です。

 豊中市当局は、当初、このバックラッシュに対峙する姿勢を見せましたが、2003年の秋頃になると、対峙どころか逆に私の排斥を画策するようになりました。つまりバックラッシュ勢力の圧力に行政が屈したと私は考えます。

 以上が第一番の理由です。

 第二の理由ですが、すてっぷの就業規則によれば、館長を含む嘱託職員は、よほどの事がない限り何回でも更新が可能です。ところが、事務局長は2003年夏、館長を除く嘱託職員の就業規則を「更新回数の上限を4回とする」との改悪案を出してきました。嘱託職員は私を含め全員が女性です。これが女性差別でなくて何でしょう。女性の権利を守るべき「すてっぷ」にあるまじき行為であり、私が賛成するはずもありません。それに私自身、非常勤嘱託職員であり、これは私の問題でもありました。強行すれば抵抗することが明らかな私を、市は疎ましく考えたのでしょう。

 どこかに職を得れば、いつかは必ずそこをやめる日が来ます。その終止符がうたれる状況には、2つの種類があります。ひとつは本人が納得できる終止符、もうひとつは本人に不本意な終止符です。

 日本に1000万人とも2000万人とも言われている非正規労働者こそ、本人に不本意な終止符をうたれて仕事をやめさせられている人々です。

 すてっぷという組織のトップであった館長職の私でさえ、非常勤という非正規職員だったがゆえに、使い捨ては当然だと豊中市はふんだのです。こうして事実上の雇用主である豊中市は、非正規労働者を不安定労働たらしめている最大の原因である「雇止め」という姑息な手段で、私を排除しました。

バックラッシュ勢力の攻撃

 私を突如辞めさせることを決めた背後にあると考えられるバックラッシュについて、少し説明します。

 バックラッシュと呼べる全国の動きをまとめた「バックラッシュ年表」を見ると、いかにこの勢力の攻撃が日本中を席巻しているかがわかります。

 豊中市のバックラッシュについて簡単にまとめますと、2002年、市は懸案の男女共同参画推進条例の制定にむけて動き出します。この過程で、自民党や新政とよなか(民主系)の一部男性議員からバックラッシュ発言が相次ぎます。

 その一人、北川悟司議員(新政とよなか)は、旧来の男らしさ・女らしさにこだわり、専業主婦の役割をことさら高く評価するよう主張しました。北川議員はたびたび「すてっぷ」についても質問しました。受付窓口対応、情報ライブラリーの蔵書内容・選定者などを槍玉にあげました。2002年12月の議会では、情報ライブラリーについて、こう述べています。

         「すてっぷライブラリーの蔵書の中にある多数のジェンダーフリー関連の図
         書は、市民に誤解を生む原因になります。一方的な思想を植えつけるよう図
         書は、すてっぷをはじめ学校図書館などから即刻廃棄すべきである」

 まさに、ナチスの「焚書」のようです。

 同時に、「すてっぷ」には、利用者を装った人物が複数やって来て、「館長はいるか」「ここの主は誰だ」「館長の過去を知っているか」などとすごみ、窓口業務を妨害しました。頻繁に圧力をかけてきた一人は、北川悟司議員が理事長を務める「教育再生地方議員百人と市民の会」の事務局をしている男性でした。「訴状」や「三井陳述書」ではイニシャルで表していますが、「教育再生地方議員百人と市民の会」のホームページには彼の実名が出ています。

 この「教育再生地方議員百人と市民の会」は、「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」と密接なつながりを持つ組織です。教育基本法の改正を目標にしています。大阪府吹田市に事務局を置き、西村真悟、塚本三郎、亀井郁夫などの現・元国会議員、宇部市議や東京都議に加え、藤岡信勝氏、高橋史朗氏などが参加しています。この団体のリーダーである北川議員は、男女共同参画以前は、教科書採択問題や国旗国歌斉唱について豊中市議会で執拗に質問をし、節目節目で「産経新聞」が彼の発言を持ち上げる形で報道しています。

男女共同参画推進条例案

 豊中市は、このようなバックラッシュ勢力の攻撃による混乱をさけようと、2003年3月に制定を予定していた男女共同参画推進条例案の上程を取り下げました。異例のことでした。それに先立って、日本会議大阪のホームページは、北川議員の名前をたたえ、条例案取り下げを評価する記事を掲載しました。

 その後、豊中市は、取り下げた条例案を半年後の9月に上程することにしました。
2003年夏、9月議会への男女共同参画推進条例案上程・制定に向けて、市の幹部は市議会会派に説明と意向確認に動きました。これは日本の政治の世界では常識です。

 その証拠となる文書があります。まだ私に対して情報が秘匿されていなかった2002年12月議会の一議員の予定質問書と、それへの市の予定回答です。これと、同議会が終わった後に作成されホームページなどで公開されている議事録を見比べると、ほぼ寸分たがわぬ質問と回答になっています。
議会と行政幹部との事前折衝・すり合わせは、双方が納得できるまで繰り返し繰り返し行われます。本来はあってはならないことでしょう。ところが実態は、このあってはならないことが当然のように、議会が開催されるたびに行われているのです。私が議員を務めたことのある東京都議会でもそうでした。豊中市議会では、男女共同参画推進条例案上程にあたって、その事前折衝・すり合わせ、ひらたく言えば根回しが、極めて念入りに行われたはずです。

取引

 それでは、どうしても双方が合意できる質問・回答が得られなかった場合はどうするか? その場合、「取引」が行われることが一般的です。「市がそこまで言うのなら(この質問は)とり下げよう」、あるいは「意に反するが、賛成しよう」などという議員の結論と引き換えに、市は議員の要望する事柄をのむことで、「取引」は成立します。

 取引材料はさまざまです。議員と深いかかわりのある特定市民・団体への利益供与という場合もあります。時には、○○部長を更迭せよといった人事に及ぶこともなくはありません。とくに男女共同参画推進条例案のように、市長の政治生命にも影響を与えかねないケースで、しかも与党に強固な反対議員がいる場合には、よりねんごろな事前折衝が行われたことは間違いありません。市は絶対にありえないと繰り返すでしょうが、この場合、客観的に見て、条例成立と引き換えに私を雇止めにすることは、最も可能性の高い取引材料だったと、私は考えています。

反対なのに賛成

 こうして市長提出の条例案が賛成可決されることが確実となり、条例案は議会に上程されました。2003年9月16日のことです。

 9月24日、9月議会の総務常任委員会において、条例案反対の急先鋒である北川議員は、市の条例案への自作の対案を示し、逐条ごとに市の案に反対である旨の意見を延々と述べました。ところが採決の際には起立をして賛成に回りました。

 10月1日は本会議。そこで、新政とよなかを代表して発言したのは、またしても北川議員でした。彼は、条例案には「ジェンダーフリー思想に基づいた表現や文言がはいりこんでいる」として反対意見を述べ、以前とまったく変わらない事例を出して攻撃を続けました。発言内容からすると条例案には反対でなければおかしいのですが、しかしながら北川議員は「賛成討論」であると締めくくり、条例案に賛成をしました。きわめて奇妙な行動でした。

 豊中市の男女共同参画推進条例は、こうして無修正で議会を通過し、公布されました。

 

「三井さんを館長にしている豊中市の責任を問題にしている」

 一方、9月議会と相前後して、私やすてっぷへのバックラッシュ攻撃が目立ってきました。中でもとくに卑劣だったのは、すてっぷ主催事業として私が行ってきた「館長出前講座」において、私が「専業主婦はIQが低いから専業主婦しかやる能力がない」と言ったという根も葉もない噂が広まったことです。

 しかも、その噂を流していた一人は、新政とよなかに属している副議長職にある議員でした。一日も早くその噂を止めないと、すてっぷの存在そのものまで危くなると考えた私は、副議長に「その噂を、いつ、どこで、誰から聞いたのか」と質しに行きたいと思いました。副議長から直接言われたという人権文化部幹部に会うために市役所に出向き、同席をしてくださいとお願いをしました。ところが、「組織として同席はできない」と断わられました。私は「では、一人で参ります」と言い、副議長にアポの電話をしました。ところが、市の人権文化部は部長を先頭に、私が副議長に面会するのをこぞって止めにかかったのです。

 さらに、11月になると、1年ほど前にすてっぷが流したファックス文書について、北川議員が人権文化部長に怒鳴ってきた、という知らせを事務局長から聞かされます。この文書は、2003年3月に上程予定だった男女共同参画推進条例案に関わって、豊中市とすてっぷに対してなされたバックラッシュ攻撃を時系列にまとめた内部資料でした。2002年12月初め、すてっぷの理事・評議員全員にファックスで送信したり、手渡しで届けたりしました。

 それが、1年後の2003年11月中旬になって北川議員の逆鱗に触れたというのです。私の耳にはいったのは、豊中市が私に「理事会で審議することだが、トップの意向で、組織体制変更をし、非常勤館長が常勤館長となる案が出ている」と告げた、そのわずか4日後のことでした。

 「緊急に対策会議を開く」と電話を受けた私は、ただちにすてっぷに戻ります。そして、誰もいない閉庁日の夜7時から10時すぎまで、北川議員とその仲間にあたる「市民団体」メンバーから糾弾されます。その席には、すてっぷから館長と事務局長、豊中市から男女共同参画推進課長と同主幹、「市民団体」から3人。北川議員から怒鳴られたという市の人権文化部長(男性)はいませんでした。北川議員を除く全員が女性でした。

 その席上の発言で、とくに忘れられないのは、次のような批判です。
  「すてっぷは三井カラーにそまっている」
  「三井さんを館長にしている市の責任を問題にしているんだ」
  「事務局長は市の職員でしょう。中立であるべきだ」

福井県武生市に波及したバックラッシュ

 豊中市議会のバックラッシュ勢力が私の首を切りたがっているのは、明白でした。議員だけでなく「市民」と称する議員の仲間たちは、かねてから私の存在を問題視して、攻撃の対象にしていました。 その攻撃は豊中市だけにとどまりませんでした。

 私は、福井県武生市の男女平等オンブッド(オンブズマンのこと)を務めていたのですが、豊中市のその勢力が属する会派・新政とよなかは、私の勤務中、視察と称して武生までやってきました。その一部議員は、その後、武生の同会派議員と頻繁に連絡をとりあい、武生市議会において、「(三井は)豊中の学校のトイレを男女で色を同じにした」などという嘘を前提に、私を非難する質問をさせています。さらに、東京で開かれた労組の集会の折には、武生市の議員に、「武生にも三井が行ってるだろう。三井はやめさせにゃーならん」と息巻いていたということでした。

 その攻撃が功を奏し、2004年8月には、私は武生市の男女平等オンブッドの契約更新を阻まれたのです。そこまで私を目の敵にしていたバックラッシュ勢力が、地元の豊中から私を追い出したかったことは、火を見るより明らかです。ここに条例をなんとしても成立させたかった市との間で取引が成立する余地があります。条例に賛成してもらう見返りとして、市は私の首を差し出した可能性が高いのです。およびこれまでに提出した訴状、準備書面、陳述書で明らかにしたように、私の周辺で起きた出来事の多くが、そのことを示唆していると、私は考えます。

館長定年なし、他は60歳まで

 話を非正規職員問題に移します。
すてっぷの非常勤館長は、世の中の一般的な非常勤職より多少有利な条件のもとで働いていたと思います。すてっぷの非常勤嘱託職員の雇用更新は、以下のようになっています。

         「館長就業規則第4条 前条の雇用期間が満了した館長については、その者
         の能力及び経験等を考慮し、業務の効率的な運営を確保するため必要がある
         と認められる場合は、その雇用期間を更新することができる」

 これによると、館長は、1年毎の雇用更新を繰り返して何回でも雇用されることが可能なのです。定年も定められていません。

                             (45号につづく)

(出典:『教育労働ネットワーク』(2007 春 No.44 編集責任者・佐藤進、981-0942 仙台市青葉区貝ヶ森3-16-2 TEL022-278-5747))



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