「豊中市と市民のパートナーシップ」とは

2006年12月13日

和田 明子


 私は、「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ」(以下すてっぷ)開設以前の準備段階からすてっぷに関わってきた一市民です。その過程で、私が経験した豊中市との関わりを述べます。この裁判では、豊中市が三井館長を理不尽に“解雇”した経緯や、文書を改ざんした事実などが、次々に明らかになってきましたが、こうした市の不誠実な姿勢は今に始まったことではありません。それは、私たち一般市民も経験していることなのです。

 2002年の末、「バックラッシュ」の動きに対抗するため、豊中市の呼びかけに応じる形で、条例制定を求める側の市民が署名活動をしました。この経過については、2006年6月21日付の陳述書で述べました。このときに、すばやく署名活動などをした市民有志は、2003年11月頃、「三井館長の続投が危ない!」「市はバックラッシュ攻撃の的になっている三井さんをバックラッシュ勢力との取引に使うかもしれない!」と感じ取り、『三井館長続投』の要望書を豊中市に提出しました。
 私たちのこうした行動の背後には、すてっぷ立ち上げ時に経験した豊中市に対する根強い不信感があったからでした(三井さんは知らない)。豊中市は「市民とのパートナーシップ」という耳ざわりの良い言葉で市民を踊らせ、必要がなくなると使い捨てにされる、といったことを経験してきたので、市は信用できないと思っていたのです。

 話は1998年にさかのぼります。「市民とのパートナーシップで新しい女性センターをつくる」という豊中市の呼びかけに約100人の女たちが集まりました。
 「女性の地位向上のための市民の場所ができる」「自分たちの活動の拠点ができる」「いつでも気軽に集れる場所ができる」――こうした女たちの熱い思いと期待を背にして、「(仮称)女性総合センター開設に向けた市民からの意見募集会」(以下意見募集会)は、1998年6月24日スタートしました。
 毎月1回、朝の部と夜の部に分かれて、女性政策課との意見交換や、講師を招いての勉強会をしました。この例会は2000年の2月まで続き、計29回も集いました。
 初期の頃のレジュメをみると、
○ 女性総合センターの基本理念、基本機能、基本事業メニュー、部屋メニューと部屋の配置について。
○ 市民と行政のパートナーシップの具現 などのテーマが謳われています。

 2000年に入って、仮称だった「女性センター」が「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ」と決定しました。4月27日が第30回目の「意見募集会」で、会の後半から、第1回「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷオープニング事業市民実行委員会」(以下市民実行委員会)となりました。
 それまで月1回でしたが、市民実行委員会となってから、例会は月2回に増えました。それは11月17日のオープンの日まで続きました。
 オープニングイベントの全体のプログラムの検討、各分科会に分かれて自分たちが担当する企画についてメンバーが共通認識を持つための討論、その企画を具体化するための何回もの話し合い、……等々で、その作業は夜10時過ぎまで続くことも度々ありました。月2回の例会以外にも、各グループは何度も集まって、すてっぷのオープニングに向けて準備を進めました。
 小さな子どもをかかえている人、仕事を持っている人、他の市民活動をしている人など忙しい人ばかりでしたが、女性たちは時間の都合をつけてすてっぷのオープニングに向けて力を出し合い、協力しあいました。それも、「私たちの女性センター(すてっぷ)を私たちの手でつくるのだ」という使命感や女どうしの連帯感があったからこそ、続けることができたのだと思っています。

 ところが、何度となく市民どうしで企画案を出し合い、話合った後、グループの意見がひとつにまとまり、グループとして具体的な催しの内容を提案する段階になると、必ず豊中市の行政側からチエックが入るのです。細かいチェックだけでなく、企画案自体にストップがかかり、案の抜本的変更を要請してくることも数多くありました。グループ内の1人1人に個別に電話をかけ、旅行などで留守にしていた人には旅先にまで電話をかけてきたと聞きました。
 なんのために夜おそくまで議論をしてきたのか、市民は使い捨てのボランティアなのか、行政の言う「市民とのパートナーシップ」とはなにを意味しているのか、……市民実行委員の不満は2000年秋のすてっぷ・オープニングのころには頂点に達していました。

 オープニングイベントが終わって7ヶ月後に「オープニング事業市民実行委員アンケート集約」が出ました。
そこには、
○ 市民のアイディアが肯定的に生かされず非常に残念であり、すてっぷの精神(エンパワーメント・連帯)に矛盾すると思う。
○ 自主的に活動している時に、すてっぷ事業部からのStopが何度も入って、やろうと思っていたことが出来なかったり、足止めをくったことで思いきりできなかった。してはいけないことが多すぎる。
○ 一般市民の活動を規制して欲しくない。バリアフリーの時代です。
などと、当時の市民の不満と怒りが噴出していました。
 ところが、オープニングイベントの最後、豊中市の武井順子課長の「これで解散します」の一言で、市民実行委員会は消滅しました。

 オープニングイベントが開催されていた2000年11月17日〜19日の3日間、参加した方々にもアンケートを書いてもらいました。その参加者アンケートとオープニング事業市民実行委員のアンケートが一冊の報告集にまとめられることが決まっていました。
 ところが、2001年3月31日に発行された『とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ、オープニング事業報告集』を見て驚きました。市民実行委員のアンケートは収録されていませんでした。
 オープニング事業は、さまざまなワークショップを企画し運営した人と参加した人たちによって実現したものです。オープニング市民実行委員のアンケートを載せないのはおかしなことです。こういうことをしたのは、市民実行委員の意見を外に公表したくなかったからではないか、と私たちは考えました。

 私たち市民実行委員会の意見はどのようにあつかわれたのか、私は三井館長に直接尋ねようと、すてっぷに行きました。
 ところが三井館長は私たち市民実行委員のアンケートの存在については全く知りませんでした。
 数日後、三井館長から「みなさんのアンケートが見つかった」という電話がありました。三井館長の話によると、書類の山のなかにホコリにまみれて入っていたという報告を事務局長から受けたそうです。
 こうして『とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ、オープニング事業報告集』が発行されてから3ヶ月遅れて、市民実行委員のアンケートが印刷物に集約されました。
 私たちが行政のやったことに疑問を抱いて三井館長に尋ねなければ、私たちの声は握りつぶされていたのです。
 行政のこの扱いについて、市民実行委員の有志で豊中市人権文化部女性政策課に対して話し合いを申しいれました。その話し合いの結果をまとめて、市長に対して市の姿勢を糾す要望書を提出しました。2002年(平成14年)5月10日、この要望書への回答が豊中市人権文化部前部長から届きました。それには「当部といたしましても、市民や実行委員有志のみなさまからのご意見をお聴きしながら、具体的な取り組みをすすめていきたいと考えております。」とありました。しかし、私たちはその後一度も行政から意見を求められたことはありません。

 2001年、すてっぷは、1周年記念事業の時も実行委員を募集しました。しかし、オープニング時の市民実行委員メンバーは、誰ひとり募集には応じませんでした。もう、懲りたのです。応募したのは、オープニングに関わったことのない市民ばかりでした。

 このような私たち市民の経験から、バックラシュ勢力と取引して三井館長を首にすることもやりかねない、理事会・評議員会の議事録改ざんもやりかねない……そう、心の底から思えるのです。




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