豊中市のいう「市民とのパートナーシップ」の嘘

和田明子(元フリーク店主、豊中市民)


和田さん

 三井さんが危ないとはじめて感じたのは、2003年、男女共同参画推進条例案が9月議会に上程される前でした。

 私は豊中駅の近くで喫茶「フリーク」を開いていました。そこに三井さんが立ち寄りました。「館長講演会で、私が『専業主婦は知能指数が低い人たちだ』と言ったという嘘の噂を豊中市議会の副議長がしているらしい。副議長に会いに行って確かめてこようと思う。どう思う?」と意見を聞かれた時でした。

 その後、三井さんから、「山本瑞枝さん(すってぷ事務局長、市の出向職員)の様子がどうもおかしい。頼んだことをやってくれない…」なども聞くようになりました。でも三井さんは、それ以上のことは守秘義務があるからと話してくれませんでした。私は、「来年の館長継続が危ない」としだいに確信するようになりました。

 それより前になりますが、2002年12月、山本さん(すてっぷ事務局長)から来年の3月議会に男女共同参画条例案を上程する予定だが、バックラッシュの動きが強いので市民にも協力して条例案推進の動きをつくって欲しいと呼びかけがありました。それまで女性問題に取り組んでいた女性たちは、条例案を支持するグループをつくって行政に協力することにしました。しかし条例案は2003年3月議会に上程されませんでした。

 その後、豊中市は市民に対する対応を変えてきました。私たち市民の運動を迷惑がるようになったのです。条例案推進の仲間で作っていたメーリングリストのメンバーでもあり、バックラッシュ側の情報を投稿していた山本さんは投稿しなくなりました。

 バックラッシュに危機感を持っていた市民に呼びかけて、三井館長の続投を希望する要望書を豊中市長とすてっぷ理事長と理事会に出すことにしました。

 2004年1月、事態は深刻になっていきました。新聞『女性ニューズ』に豊中で起きていることを報告する原稿を送ったところ、2004年1月20日付けで記事が掲載されました。

 1月28日、本郷和平部長(豊中市人権文化部長)から電話が来ました。「何を書かれようと自由だが取材をしたのか。嘘を書かないでほしい。全国から抗議の電話やFAXが入って困っている。記事を撤回してほしい」というような内容でした。

 私は「(嘘ではないので)記事は撤回しません。反論があるのでしたらそちらで書いてください」と言いました。すると「泥試合にはしたくない。和田さんのほうで撤回してほしい。会のメンバーは何人か、要望書に名前を出されている人と同じか。対応を考えさせてもらう」というようなことを言いました。

 1月29日、武井順子課長(豊中市男女共同参画課課長)から電話が入りました。「記事を撤回して欲しい。『女性ニューズ』は全国で読まれているので、非常に影響が大きい。どのように責任をとられるのか。三井さんのためになりませんよ。この会には他にメンバーがいるのですか」というような内容でした。

 1月30日、要望書を出すことに賛同して名前を明記したメンバーの一人から要望書を撤回してほしいと電話がはいりました。その人は、「山本瑞枝さんとはけんかするつもりはない。すてっぷの館長は三井さんでなくてもよい」と言いました。

 豊中市は、役割を分けて、本郷部長と武井課長は、わたしにプレッシャーをかけ、すてっぷの山本事務局長は市民の切り崩しをしていたのだ、とわかりました。あの頃は今日は何が起きるか、明日はなにがというような毎日でした。こうして、数名が三井館長続投要望から下りました。

 しばらく日が過ぎてから、何人かの人から、どのように署名から抜けるよう誘われたかを聞く機会がありました。「あの人らについていったら怖いよ」「フリーク(私が開いていた喫茶)に行ったらアカになるよ」というようなことを言われたというのです。三井さんについてありもしないデマを流したように、男女平等を望んで運動していた私たちにも同じことをしていたのです。

 豊中市からの電話の後、私は『女性ニューズ』の会社に連絡をしました。すると、『女性ニューズ』編集者は、こう言いました。

 「豊中市の男女共同参画課の男性職員が、記事を撤回するようにと言ってきました。電話の最後に、こちらが『和田さんは嘘を書かれたということですか』と尋ねたら、『だいたいにおいて、和田さんの書かれているとおりです』と言ってました」

 この時点で、三井降ろしの真相ははっきりしていたと私は思います。それを豊中市に認めさせるのに、三井さんは提訴して7年も費やさなければならなりませんでした。

      

注:肩書はすべて当時。わかりやすくするため実際の講演録に多少補足した。
             2004年1月20日付『女性ニューズ』

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