浅倉意見書感想 11

■大きな希望を与えてくれる浅倉意見書

和田 明子



 2002年12月の初め頃だっただろうか、深夜、すてっぷの事務局長(当時)山本瑞枝さんから「男女共同社会をつくる市民交流会への参加のお願い」と題したFAXが、私あてに入った。

 それには、バックラッシュ勢力がすてっぷへに対して、いつ、どんな攻撃をしてきたかを日付順に記した表が添付されていた。

 山本事務局長からの「お願い」とは、豊中市は2003年の3月議会に男女共同参画条例の上程を目指しているが、条例に反対するバックラッシュ勢力の動きが強くなってきてこのままでは条例制定が危ないので、市民にも協力して欲しいというものだった。

 この呼びかけに応じて、条例制定を望んでいた私たち市民はグループをつくって条例の制定を目指し、さまざまな活動を始めた。

 数ヶ月たったころから(2003年6月前後)、豊中市の態度が徐々に変化していった。豊中市の職員たちは、私たち市民の行動を規制し始めた。条例制定のために運動してほしいと市民に「お願い」し私たち市民のグループとともに運動していたように見えた山本事務局長自身も、まったく関わらなくなってしまっていた。豊中市は条例を3月議会に出すことを断念し9月に延期していたのだから、より活発な市民運動を期待するのが自然なのに、不思議だった。

 その一方で、豊中市は三井マリ子館長解雇の画策を始めていたのだ。

 2003年11月、裁判ですっかり有名になった「ファックス事件」がおきる。 北川議員がファックスの内容に激昂し、三井館長らを糾弾したという事件である。後になってそのファックス事件を知ったとき、なんで今ごろ問題になるのか不思議だった。なぜかというと、そのファックスとは、前述した2002年12月初め、つまり1年も前に、私たちがすてっぷの山本事務局長から受け取ったFAXに添付されていた表のことだったからだ。

 翌2004年3月に三井さんの不採用が決まって、あの「ファックス事件」もバックラッシュ勢力による三井解雇の念押しだったのだと理解することになった。

 浅倉意見書には、この「ファックス事件」ではその対応に4人の女をバックラシュの暴力にさらしておいて、責任者の男(本郷人権文化部長)は逃げていたことが書かれている。この部分を読んで、あらためて当時のことがよみがえってきて、怒りがわいてきた。

 浅倉意見書は、また一審判決の問題点を明快に論じていて、一審判決に失望した私に大きな希望を与えてくれた。特に首肯したのは、次期館長はすでに決まっていて結論ありきの形式だけの採用試験だったことを述べている点である。

 「本件は、常勤館長選考試験手続を設けて、一見、公平性を装ってはいるものの、すでに選考される者が決まっていたのであって、けっして『複数名の候補者の中から選任する手続き』だったのではない。はじめから桂を選考することが決まっていた形式的な面接試験だったのである。」

 浅倉意見書は、さらに、次期館長が決まっていたにも関わらず、試験をあえてしたのは、「『公平さ』を装わないかぎり、かえって自らの正当化が証明できないと考えたからでしかない」と明快に述べている。

 「(桂が)適任でないというふうに判断が下った場合には我々が辞表を出して謝っても済む問題ではないと覚悟を決めた」と本郷部長がいうほどに、すてっぷの館長問題は豊中市の最重要課題だったのだ。当時豊中市は、理事一人一人を説得に回ったと聞いている。

 三井さんは男女平等の社会を目指して情熱をもって仕事にとりくみ、その仕事は市民から支持を得ていた。男女共同参画センターの館長として最もふさわしい人だった。だからこそバックラッシュ勢力のターゲットとなった。そしてそのバックラッシュ勢力に屈した豊中市にとっては、最もふさわしくない館長になっていったのだ。

 浅倉意見書は裁判支援者に大きな希望与えてくれる。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。



進んでいると見られていた豊中市の仮面をはいだ浅倉意見書

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