浅倉意見書感想 19

■日本女性の解放と平和がかかっている

前田 冨士子                         
 (郵政退職会京都連絡協議会 簡保支部松寿会会長)


 浅倉むつ子先生の「意見書」を、全面的に支持します。

 三井マリ子さんが、豊中の女性センターの館長だと知っていましたが、非常勤の館長だと知ったときは、びっくりしました。館長と名のつく男性で、非常勤だという方は、おられたのでしょうか。いたとしても、三井さんのように簡単に首を斬られた男性館長はおられなかったのではないでしょうか。

 非常勤であっても、館長に就任された三井さんの男女平等推進、男女共同参画社会の実現に対する熱意と行動には、圧倒されていました。私だけではありません、豊中市も、市民も、三井さんの活躍を評価してきたのです。その三井さんが、豊中から追い出されてしまったことに、またまたびっくりしました。浅倉先生の意見書を読んで、三井さんは人格権を侵害されたのだ、とわかりました。これに怒らずにおられましょうか。

 何故、豊中市は、三井さんの人格権を奪ったのですか。何故、豊中市は、行政として憲法を守る立場にありながら、憲法を侵すバックラッシュ勢力に対して、毅然とした対処ができなかったのですか。そのバックラッシュ勢力は、「三井館長は講演会で、専業主婦は頭が悪い、と言った」という噂を流しました。一番に解放されなければならない専業主婦に対して、「頭が悪い」などと、三井さんが言いますか。ちょっと考えただけで、ウソだということが判ります。何故、誰でもすぐ判るデマを、豊中市も、財団も、山本事務局長(市の出向職員)も、きちんと否定しなかったのですか。

 戦後、労働組合が結成され、労働講座を受講していた姉から、私は、労働運動について聞いていました。労働歌やロシア民謡も教わりました。また姉は『女性改造』という月刊誌を購読していました。当時私は、西京高校の高校生でした。京都は戦後いち早く地域制、総合制、男女共学を実施しており、名簿も男女混合のアイウエオ順でした。ゴーリキーの『どん底』の演劇に感銘と衝撃を受けたことを覚えています。

 そんな自由な高校時代を送っていた私は、姉の留守に、『女性改造』を読んでいました。因習を打破し、女性が経済的に自立して生きることを鼓舞するような論文が多く載っている雑誌でした。一番、印象に残っているのは、「原始、女性は太陽であった」という平塚らいちょうのことばです。そんな中で、「自分が働くようになったら、労働組合にはいるのが当たり前なんや」と思うようになっていました。

 私は、郵政省京都支部地方簡易保険局に就職しました。採用試験は、筆記の後に面接がありました。面接官は男性ばかりで4人だったと思います。私は、「何のために働くのか」と聞かれ、「男女差別賃金をなくすために働きます」と答えたことをはっきり覚えています。その当時、男性が100に対して、女性は60でした。でも、面接官は、「男女差別賃金をなくすために働きます」と私が言ったことについて、「何を言ってるか、意味がわからなかった」と言っていたということを、就職してから耳にしました。

 就職をしたのは1952(昭和27)年4月14日、退職したのは1993(平成5)年3月31日です。40年11月17日間働いたことは、私の誇りです。

 就職してまもなく、ガリキリ、謄写板と手刷りで、ニュース発行などを手伝いました。「ガリキリ3年、刷り8年」と言われた、難しい作業でした。その後、簡保支部の婦人部の委員になって、その後、簡保支部婦人部常任幹事→副部長→部長。さらに全逓京都地区本部婦人部常任委員→副部長→部長、を務めました。それから、婦人部をやめ、簡保支部の執行委員をしました。

 執行委員の私の担当は、「共闘」「労災」「献血」でした。「共闘」では仙台の松山事件支援など、「労災」はキーパンチャーのけいわん発症、公務災害認定闘争などに取り組みました。「献血」は、職員だけでなくその家族にも呼びかけることになっており、担当の私は、吸血鬼といわれていました。

 厚手の紙にパンチを打ち込むキーパンチャーは女性の仕事でした。約100名中、けいわん発症約80名で、そのうち15名の認定を勝ち取りました。しかし、事務職のボールペンによる腱鞘炎、けいわん発症は認められませんでした。「しんどい、しんどい」と言っていた腱鞘炎の人を、認定されないまま退職させてしまったことは、大きな悲しみでした。私は、「働いて病気になったら、健康になってから退職しよう」と言っていたのです。

 また、60年安保闘争と三池闘争は、国家権力が東と西に二分化したといわれる闘いでした。三池闘争の中で、荒木栄作曲の歌は素晴らしいものでした。「がんばろう、つきあげる空に…」(森田ヤエ子作詞)はじめ多くの歌に、みんなが励まされました。私のメーデー参加は、1953(昭和28)年です。メーデーは、全世界の労働者階級がいっせいに起ち上がる日です。メーデーに参加すると心丈夫に思います。2008年は入院中のため医師の許可が出なくて不参加でしたが、それ以外は1回も欠かさず参加し、今年2009年、55回目のメーデー参加ができました。とてもうれしかったです。

 現在、男女格差賃金は、男性100に対し女性64です。戦後とあまり変わっていません。男女同一価値労働同一賃金の確立が、私の目標です。これを実現しない限り、女性はもちろん男性も幸せになれないと私は思っています。賃金だけでなく、女性の参政権行使から60年以上たった現在でも、日本は女性差別だらけです。

 「働く女性の53%が非正規職員」「正規社員も、管理区分で格差を受ける」「成果主義で、賃金に潜む性差別がある」「シングルマザーの貧困率、日本は58% OECD諸国は21%」「有価労働に従事するシングルマザーが、従事しないシングルマザーより、貧困率の高いのは、トルコと日本だけ」「こうした条件下で、2002年から児童扶養手当の事実上の削減」

 雛壇では、男雛と女雛は同じ段に座っています。ところが、賃金格差は100対60ですから、現実は、男雛が10段目に座っているのに、女雛は6段目なのです。女雛が10段目に座ってはじめて、男性も女性も、幸せになれるのです。

 男女性別役割分担を固執する豊中市の北川悟司議員(当時)、「教育再生地方議員百人と市民の会」などの団体の方々、男が10段目で、女が6段目の雛壇のままで良いのですか。何故、あなた方は、女性が男性と平等になることに反対なのですか。何故、男女平等をうたう憲法をふみにじるのですか。

 最近、『新婦人しんぶん』(2009年4月23日号)で「男女平等・共同参画への攻撃、後退、各地で」という特集を読みました。政府が、第二次男女共同参画基本計画を見直しする2010年に向けて、各地で、豊中市と同じようなバックラッシュ攻撃が起こっていることが報道されています。

 熊本市が提案した男女共同参画条例案に、熊本市議会の一部の議員が、「日本の伝統文化を否定している」と主張し、50ヵ所も修正、賛成多数で可決したそうです。条例の前文にあった「女性差別撤廃条約」に関わる部分が削除され、条文にあった「性別による固定的な役割分担意識」「セクハラ」「ドメスティック・バイオレンス」も削除されたと書かれています。

 松山市議会では、「市がジェンダー学あるいは女性学の学習あるいは研究をしないこと」など、条例をゆがめる請願が採択されたそうです。それに対して、浅倉むつ子先生を代表とするジェンダー法学会が、憂慮する声明を出しています(注)。ところが、松山市はバックラッシュ勢力に譲歩する姿勢を変えていません。女性センター館長自らジェンダー関係の本を撤去。性教育を非難する講師の講演会を催すなど、「市みずからがバックラッシュの先頭に立っています」ということです。

 バックラッシュ攻撃に対して、私たちは闘うのみです。女性も男性も共に、性別役割分業にとらわれることなく、一人の人間として、尊重される社会をつくるために、すべての自冶体で、性別役割分業を変えることを含んだ「男女平等条例」制定が必要です。今年は、女性差別撤廃条約採択から30年。国際社会からも、日本の男女平等、男女共同参画へのとりくみが、注目されているのです。

 社民党党首の福島瑞穂さんは、こう言ってます。
「北欧に『平和と平等は手を携えてやってくる』というステキな言葉がある。今は、『戦争と差別・排外主義が手を携えてやってくる』という時代になっているのではないか。」(「女性の政治参加」:『アジェンダ―未来への課題―』2004年号より)

 男女平等の大切さを認識し、男女平等をすすめる仕事を邪魔したバックラッシュ勢力に対して、敢然と闘う決意をされた三井さんの勇気を尊いと思います。三井さんの闘っている問題は、三井さん一人だけの問題ではないのです。日本女性の解放と平和がかかっているのです。勝利するまで、闘うのみです。

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注 ジェンダー法学会理事会声明
 

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