三井さんの館長雇止め事件の「意見書」を書いて

浅倉 むつ子教授(早稲田大学)      
   2010年4月24日「勝ち抜く集会」@東京

三井さん、本当におめでとうございます。皆さんもおめでとうございました。今日はまとまった話をする準備があまりできなかったのですが、大慌てでレジュメを作ってきましたので、少しお話しさせていただきます。判決については紀藤先生から、後ほど、法律家らしい解説をいただけるということですので、私は、少し自分の専門、先ほどご紹介いただいたように、ジェンダー法と労働法が専門なので、そういう立場から、三井さんのこの事件そのものを位置づけながら、自分が書いた意見書について、お話ししようと思います。

氈@個人的な経験

「引受けなければならない」と思った
最初に、私の個人的な経験にふれます。私は、これまでも、いろいろな裁判に関する意見書を書いたことがありました。それらは、完全に負けたものはなくて、和解で終わったというのが何件かあり、あとは勝てたような状況だったんですね。もちろんそれらは、法的な根拠がある事件だったために、私の力というよりは、私の専門としている労働法の中のいくつかの通説が勝訴を導いてくれたということだったと思います。

それらの事件に比べて、今回の三井さんの事件は、少し、私の個人的な思い入れがあって、お引き受けしました。いやむしろ、お引き受けしなければならないなと思ったケースです。

個人的な経験とはどういうことかをお話します。私は、東京都立大学というところで勉強し、そこを卒業し、そのまま自分の母校の大学で、法学部の教員になりました。その頃、自分としてはすごく「フェミニスト」になりたいと思っていたんです。しかし法律を勉強していますと、余分な専門的知識が邪魔をして、なかなか思い切ったことを言うことができません。そこで、フェミニストになりたいけれどなれない、というような状況でしばらくの間、おりました。

その後、1991年から92年の間、アメリカのバージニア大学に1年間、行くチャンスをいただきました。行ったのは、ロースクールです。アメリカのロースクールは、ジェンダー法とかフェミニズム法学とかが、ものすごく進んでいました。女性の学生が半数以上を占めていて、ものすごく活躍しており、教員の半数も女性でした。そしてフェミニズム法学、フェミニズム・ジュディス・プリューデンスというのですけれど、その科目は、教室が満杯になるくらい、盛況で、皆さん、ものすごく活発に議論していました。これは素晴らしいとびっくりして、このアメリカの経験を通して、私はフェミニストになりました。この経験によって、自分でもなりたかったフェミニストになれたような気がして、日本に帰って来ました。

東京都の男女平等参画条例にかかわって
そんなことのあと、東京都の男女平等参画条例を策定する委員会に参加する機会をいただきました。東京都には、女性問題協議会がありまして、以前から女性の問題に関しては先進的な役割を果たしておりました。歴代のたくさんの良い会長さんたちが、良い仕事をしていらっしゃいました。私がこの女性問題協議会の委員になったときには、会長は樋口恵子さん(評論家)でした。そして私は、条例を作る専門部会の部会長という役割を引き受けました。

条例の諮問をされたときは、青島都知事だったんですが、樋口さんたちと一緒に条例策定の仕事をしている間に、石原慎太郎都知事が、99年に知事に就任しました。私たちが答申をまとめて提出する先は石原都知事になったわけです。私たちは、果たして条例はできるだろうかと危ぶんでいたのですが、ともかく2000年には、東京都の条例が策定されました。ただ、条例の内容は、私たちの答申とは異なる前文がついたりして、問題も多いものとなりましたが。

男女差別苦情処理委員会と東京女性財団が廃止された
一方、東京都は、条例より前に、「職場における男女差別苦情処理委員会」というのを設けておりました。これは、均等法ができる前から、東京都が率先してやっていた事業であり、私は、それを大変評価していました。

ところが条例ができたのを契機に、東京都は、その苦情処理委員会を廃止してしまいました。同時に、「女性に係る訴訟支援制度」も廃止しました。廃止した理由は、条例ができたんだからもうそちらに任せればよい、という理由でした。ところが、条例に基づく具体的な苦情処理制度は作られませんでした。条例では、苦情は「都知事に対して」申し入れることができるというだけでした。つまり、きちんとした第三者機関はできなかったわけです。これでは何のための条例だったかというので、かつての協議会委員は不満を持ったのですが、結局、2001年には、ご存じのように東京女性財団を廃止するという方向性も出されました。

そして、新しい条例の下で新しい審議会が発足したんですけれども、その審議会には、以前の女性問題協議会の委員は誰も任命されず、委員は総入れ替えとなりました。ともかくこういう形で、いろいろと問題のあることが進行していきました。

東京都立大学でおきたこと
一方、私は東京都立大学というところにおりましたので、都立大学問題というのも同時進行していきました。今から思うと、二つのできごとはおおいに関係がある問題だったと思います。実は、2000年3月に、学生が大学の中でビラをまいたということを理由に、大学から処分される、という事件が起きました。それにからんでいたのは、東京都のある都議会議員でした。

みなさん、七生養護学校事件というのをご存じでしょうか。この事件については、後に詳しくご報告しますが、この都議は、この事件の被告として登場します。彼は、すばらしい性教育をしていた養護学校を、他の都議とともに視察して、一方的に教育の内容を非難し、「こういう教材を使うのはおかしい」、「感覚がマヒしている」などと言って、教員の資質や人格を否定したのですが、裁判所は、この都議らの行為を「不法行為」として許されない、と述べて、損害賠償を命じました(東京地裁平成21年3月12日判決)。その人が、都立大のビラ事件に関係した都議だったのです。

都議の圧力で大学が学生を処分
この人は都議会でも強圧的なことで有名な人だったのですが、学生たちがまいたビラの中で、「この都議は裏で暴力団と関係している」というようなことを書かれたのです。それについて、都議は、これは人権侵害、名誉棄損だと主張し、学生を処分しない大学に対しては何をするかわからねぇぞ、という脅しの電話を大学にかけてきました。そのとき、当時の都立大学の事務局長が震え上がって、ものすごくびびったわけですね。そこで、大学が全体として、「学生を処分しないとどうなるかわからない」という強迫観念にとりつかれ、強硬手段をとって、評議会で学生を処分したのです。こんなひどい事件がありました。

このことは、ほとんど公けにならずに終わりました。もちろん当時の執行部内部でも、この方針に批判的な良心的な教員がいまして、その方々は役職を辞任したり、いろんなことがあったんですが、それほど表沙汰にならずに終わってしまいました。大学の内部もこのように弱体化していたのです。

そうしているうちに、大学自体はどんどん「改革」というのを迫られました。しかしまだ大学には最後の良心的な教員たちがおり、外部からの押し付けの改革ではなくて、むしろ内部の発意で大学自体を改革したいと考えていました。2001年からは、私自身も評議員になったのですが、当時は、評議会が指導権を握って、むしろ都から言われるのではなくて大学のほうから新しい大学構想というのを出そうと、着々と準備していました。東京都には、4つの大学があったのですが、その4大学が都と交渉しながら大学改革というのも進めておりました。

都立大学が首都大学東京に
ところが2003年の3月に、石原都知事の2期目の当選があった直後、都知事はやたら強気になられまして、「まったく新しい大学」を作るんだと言い始めます。今までのような都立大学は「アカの大学」であるから、それとは異なるまったく新しい大学を作るんだ、と宣言されて、教職員は「何が起こるかなぁ」と不安に思っていました。そうしたら、案の定、2003年8月1日に、まったく突然に、一方的に、それまで積み上げてきた大学主導の新大学構想ではなく、東京都が主導のトップダウンの新大学構想を押しつけてきました。そして、一挙に、私たち大学側の構想は全ておじゃんになったのです。その結果、ここから先は「東京都立大学」が「首大(くびだい)」といわれるような大学、つまり「首都大学東京」へと変質していきました。

そんなことがありまして、私自身は、2004年の4月から早稲田大学に移りました。多くの私の同僚も、ほとんどの方が転出しました。そういう流れが、21世紀になって進行したのです。同時に、「ジェンダー・フリー」に対するバックラッシュの動きも、21世紀になってものすごく広がっていきました。私は、これらは、全てが同質・同根の問題であるなぁというふうに実感していました。

一方、私が早稲田大学に移った2004年の4月に、司法改革の一環として、ロースクール(法科大学院)が、全国でいっせいにスタートしました。司法改革自体については、いろいろと評価がわかれています。現実にそううまくいっているとも思えないのですが、理念はすばらしいものです。「誰に対しても手の届く司法」というのが、司法改革の理念です。

ジェンダー法学会創設
そこで、私たちは、ジェンダーという問題を理解する法曹を生みだすお手伝いをしたいと思いまして、2003年の12月に、ジェンダー法学会を立ち上げました。立ち上げるにあたって念頭にあったのは、この「ジェンダー・フリー」のバックラッシュの中で、きちんとした法律学を学ぶ学生をぜひ育てたいという気持ちだったのです。そこで学会を作って、2004年の4月のロースクールのスタートにそなえました。日本のロースクールでも、まさにアメリカのロースクールのように、学生たちがジェンダー問題に熱い興味を持って欲しい、そう思って、私は2004年から早稲田で、労働法のみならず、ジェンダー法も教えています。

 本件の特色

ニューヨークで三井さんと出会って
そんな中で三井さんの事件と出会いました。先ほど伺っていたら、2004年の12月に三井さんが提訴されたということですから、本当に私の経験と重なっているんだなぁと思いました。

実は、三井さんが覚えていらっしゃるかどうかわからないんですが、はじめて三井マリ子さんと私が親しく交流したのは、おそらく1992年頃だったと思います。私はさきほど申し上げたように、91年から92年にアメリカに行っていたのですが、そのとき、たまたま、ニューヨークで、ジャパンソサエティのシンポジウムがありました。そこに三井さんが日本からいらしたんですよね。私たちは、たまたまシンポジストの一員でした。三井さんは、もちろん当時から、私が以前からなりたかった「フェミニスト」でしたので、素晴らしい人だなと思っておりました。その後も、しばらくの間、日本のあちこちで、ときどきお会いしてはおりましたが、それほど深くお付き合いをしていたわけではありませんでした。

多摩市で再会し、中島通子さんを偲ぶ会でまた出会い もちろん三井さんの訴訟については、勇気のある方だと尊敬の念を強めていました。たまたま2007年だったか、パルテノン多摩という、私の自宅に近い場所で、あるシンポジウムがありました。そのときも私たちはシンポジストとして会ったのですが、三井さんから、意見書を書いてもらえないかと頼まれました。しかし本当に自分も忙しいので、まだ迷っていたのです。

ところが、またその年の8月に、中島通子先生が急逝されてご葬儀というか「送る会」がありました。あの中島通子先生がお亡くなりになったんですよね。残念としかいいようがありません。ところがその送る会で、また三井さんとお会いしました。これはもう本当に、偶然の運命のような感じがしました。中島通子先生のご葬儀で、もう一度、「意見書を書いてください」と言われて、私は、なんとなく、これはもう断れない、という気持ちになりました。それで、ともかく意を尽くせるかどうかわかりませんけれども、お引き受けしようと思った次第です。

「これはひどい」と思った地裁判決
そうこうしているうちに、その翌月9月に、地裁判決が出ました。しかし地裁判決を読んだところ、「これはひどい」という印象を持ちました。私は、その前に、三井さんから、素晴らしい陳述書を頂いておりました。三井さんの陳述書を読む限り、この事件はあまりにもひどい人権侵害だと直感していたのですが、地裁判決を読んだかぎり、裁判官はほとんど事実を理解していない、私たちが経験しているバックラッシュというものがどういう性格のものかということがやはりわかっていないなぁ、と思いました。

実は、バックラッシュというものは、先ほど私が言ったように、都立大学の事務局長であった「大の男」が電話一本で震え上がるような、そういう怖さを持っているものであって、バックラッシュ勢力ににらまれたらどんなことをされるかわからないという、そういうものです。それは、必ずしも物理的な暴力ではないけれども、人を縮み上がらせるような精神的な暴力です。このような威圧や脅しに満ち満ちた暴力行為というものがあるんだということが、やはり裁判官にはわかっていないと思いました。

そして、この事件の勝訴のカギは、「なぜ豊中市がこんなことをしたのか」、「なぜ三井さんがこんな目にあわなければいけないのか」ということを、裁判官にストンと納得してもらう、裁判官の腑に落ちるようにしなければならないのだと思いました。そこで、理論的にというよりも、ともかくなぜこういうことが起きたのかということを、第三者にもわかるような形で(これは私自身も納得できるような形でということなのですが)説明できるようにすること、これが、一番基本の重要な仕事なんじゃないかなと思ったのです。

学生の「地裁判決はしかたがない」にショック
そんなことを考えていたときに、もうひとつエピソードがありました。たまたま早稲田大学で、私は、学部を超えた授業(オープン教育というのですが)の一つを担当しました。法学部以外の教員たちとオムニバスで、すべての学部生に開かれた「ジェンダーを考える」という講座の一コマを担当したのです。そのときに、「実は今こういう事件がありますよ」と、三井さんの事件を学生たちに話しました。

学生たちは、ジェンダーに関心がある人たちがたくさん集まっておりましたので、意欲的な学生が多いのです。学年末に、私は、「この地裁判決を読んで感想文を書きなさい」というレポート課題を出しました。他の先生方もいろいろと課題を出すので、学生はその中から課題を選びます。私の課題も、何人かの学生が選んでくれました。ところが、残念なことに、それを選んだほぼ全員の学生が、やはり地裁判決は仕方がないという結論を書いてきました。少しショックでした。つまり学生たちは、こういう結論(敗訴)になっても仕方のない事件であったという評価をしてきたのです。私の授業のやり方も悪かったのかもしれないのですが、やはり学生たちはバックラッシュを知らないのですから、地裁判決を読ませてもこんなふうにしか受け取ってもらえないのだと痛感しました。これは大きな反省点です。そこで、学生たちの認識を新たにしてもらうためにも、やはり自分なりの意見書をきちんと書きたいなと思いました。

それで2008年の夏に、「意見書」を書きまして、9月に高裁に提出していただきました。事実関係が非常に複雑なので、細かい疑問をもつと、その事実を三井さんに確かめながら、夏休みの何日かをかけて、「意見書」を書くことに没頭しました。じつは、私が別荘を持っている小淵沢という土地は、三井さんの長野のお家が近いのです。そこで三井さんと何度か行き来しながら、事実をより詳しく聞かせていただく中で、私自身が納得したストーリーになるような「意見書」を書くことができました。

三井さん、弁護団、支援団
この事件の特色については、いくつか挙げることができます。私は、まず最初に、三井さんの存在自体、弁護団の先生方の存在、さらに皆さんのような支援者の存在がそろっていたことが大きな特色だと思います。

とくに、三井さんご自身がバックラッシュにゆるぎない対応をしてこられたということがすばらしいと同時に、その対応にも助けられたのではないかと思います。このような事件をなぜ訴訟に持ち込むことができたのか、これは、三井さんが最後まで諦めずに、新館長採用の面接試験まで受けて、「面接試験で落とされた」ということが重要です。途中であきらめて自ら退職したら、これは事件にはならないわけです。

おそらく、全国をみても、そういうケースはものすごくたくさんあるんだと思います。館長とか女性センターのトップに居た方が、よくわからない経緯の中で、どんどん首をすげ替えられる、という事実は、じつはどこでも起きております。それらは事件にはなりません。したがって、「いやだ」と言って、自ら退職しないで最後まで面接まで受けたという、そういう三井さんがいなければ、事件自体がなかったことになります。悔しいと思ったら、悔しさを法的に争える形にしないといけないんだなぁと、私は思います。そういうことが出来たのは、やはり三井さんだったからです。

三井さんの「陳述書」
さらにいえば、私が敬服しているのは、三井さんの「陳述書」 です。自分自身の身に起こったことは、苦しくてつらいことですので、それを丹念に正確に事実として客観的に記すということ自体が非常に難しいことなのです。でも、三井さんがそれをやってくださったからこそ、法律論に結びつけることができたのだと思います。

労働法とジェンダー法の架橋をなす事案
それから2番目の特色は、この事件は、労働法とジェンダー法の架橋をなす事案だということです。もちろん、有期契約の更新拒否の事件、常勤館長としての採用を拒否されたという事件ですので、たしかに労働法に関する事件です。と同時に、その背景にあったのが、ジェンダー・バッシングという、威圧的で精神的な暴力事件です。これは、まさに労働法とジェンダー法の架橋をなす事件であるという特色をもっています。この両者を専門にしている自分が意見書を書かなければならない、と思ったのは、ある意味で当然のことでした。

脇田意見書
労働法事件としての特色は、脇田意見書に現れています。脇田先生の意見書は、非常に斬新な意見書です。今の労働法学界の中で、こういう意見書を書けるのは脇田先生しかいないと思うのですが、その内容としては、有期契約による期間の定めそのものが無効であるということをまず第一に書いていらっしゃいます。有期契約にも解雇権乱用法理が適用されるのだというわけですね。使用者に脱法的な意図がないんだということを立証しない限り、契約期間の設定自体が無効であるというような、非常に斬新な主張です。

さらに、脇田意見書は、これは解雇事件なのであり、契約期間の満了に伴う事件ではなくて、契約を打ち切られるという解雇事件なのだといいつつ、その解雇とは、人員整理とか整理解雇という性格を持った事件であるということを主張されています。つまり組織編制という、それが会社側の都合と言われるような人員整理の理由になっているのだということにつながるわけです。すなわち本件は、単なる雇い止めではなくて人員整理に類するようなケースであるというのです。したがって、厳格な司法審査が必要なケースであるということで、整理解雇の4要件にてらして判断していき、実は組織変更の必要性はなかったはずだ、三井さんには常勤館長への優先選考の配慮が認められるはずなのにそれをしていない、労働者側への説明もなされていない、そういう理由をあげて、労働法的なアプローチから、本件に対する意見書をお書きになっています。これ自体、非常に参考になる労働法分野の意見書です。

。 「意見書」で私が強調したかったこと

1 市と財団による人格権侵害=不法行為の主張
私自身は、脇田さんの意見書にさらに労働法的な観点でつけ加えるのではなくて、むしろジェンダーの視点、人格権の視点から、意見書を書きたいと考えておりました。それで、本件は、市と財団による人格権侵害であると、まずは主張いたしました。不法行為だというわけです。事実関係を丹念に見ていくと、市と財団は、徹底的に組織変更の情報を三井さんには隠していた、それから、三井さんがまるで常勤館長職を望んでいないかのような虚偽の情報を流したということ、さらに公平さを装うために、非常に形式的な選考試験を行って欺いたこと、したがって正当な理由もなしに財団から排除した、こういうことが全て不法行為であり、人格権侵害である、と主張しました。

2 労働契約上の義務違反の主張
同時にもうひとつ、労働契約上の義務違反だという主張もいたしました。どうしてこういうことを言ったのかですが、この事件は、外部から、すなわちバックラッシュ勢力から、豊中市に対して、「こうせよ、ああせよ」という圧力、いやがらせがあった事件です。また、外部の人間が虚偽の噂を流布したりしていること(三井さんが「主婦はバカだと言った」などという虚偽の噂など)や、第三者が暴力的で威圧的な言動もしていることなどです。

その結果、市は、外部からの圧迫に屈して動いた、そこのところを考えると、市はそういうときに、どうすべきだったのかを考えました。財団は、使用している労働者との関係では、労働契約上の使用者という立場にあります。これは民間企業でも同じです。民間企業と労働者は労働契約を結んでいます。労働契約を結んだときに、その契約に基づいて、労働者は企業のために労務を提供する義務がある一方、使用者は、労働者が労働を提供できるような環境整備をしっかりとやるということが、使用者側の「職場環境保護義務」になっていると言いたかったのです。

そのような義務は、労働契約上の付随義務です。そういう理論構成をすると、もし外部から圧力がかかって使用者がその義務を履行しなかったら、それは当然に義務違反になります。あるいは、外部のひとたちが労働者に対して威圧的な言動をしたり、職場環境を侵害するような行為をした場合には、そのような事態から労働者を保護しなければならないのは、むしろ使用者であり、企業側であるはずです。そういう「環境保護義務」が、労働契約上、存在するのだということを、私は、ぜひ言いたかったわけなのです。

そういう論拠によれば、市、財団が、その義務を怠った場合には、責任に問われなければなりません。自分たちは何もしないで放置していて、労働者が外部の威圧的な暴力にさらされていることを放任していることは、企業にとって、自らの責任を免れているわけです。したがって責任が問われるべきである、それを主張したくて、職場環境保護義務を強調しました。これは契約上の責任であると述べていますが、当然、不法行為上の注意義務違反にもつながっていきます。

3 参考:七生養護学校事件
ちなみに、先にも述べた七生養護学校事件について、少し報告しておきます。私が意見書を出したあとですけれど、東京地裁は、平成21年3月12日に、判決を出しました。その中で非常に特徴的な判断が行われています。七生養護学校事件は、ご存じのように、養護学校できちんとした性教育をしていた教員たちが、その性教育が行き過ぎであるというので東京都の都議が学校を視察と称して訪問し、教員たちを、行き過ぎの性教育をしていると罵倒し、その教育を止めさせたという事件です。東京都はどうしたかというと、そのときに、その都議と一緒に教育委員会の職員もついてきたけれども、都議の行為をとどめなかった、制止しなかったのです。さらに行き過ぎた性教育を理由として、東京都の教育委員会が、かえって教員を処分したのです。判決の中で、裁判官は、まず都議に対して、都議が行ったことは教育に関する侵害であると言いました。教員たちに対する人格権侵害であり、不法行為であるというわけです。また、東京都が行った教員処分も違法であり、無効であるとも言っています。

さらに画期的なことは、同行してその都議がやった行為を制止しなかった東京都の教育委員会の職員についても、「教育に対する不当な支配から教員を保護するよう配慮すべき職務上の義務に違反した」と述べています。つまり、同行していながらその場で都議の行為を制止しなかったわけですね。裁判所は、制止しなかったことは、教員を保護するよう配慮すべき職務上の義務に違反したのだ、と言いまして、こういう被告都教委の職員の不作為は、国家賠償上、違法というべきであるというのです。裁判所は、つまり、「何もしなかったということは許されない」と言っているのです。外部から侵害があったら、職員を守るということが東京都としても義務であったはずだと言うような判断をしたのだと思います。

この判断と類似した構図というのは、いろんなケースで生じています。セクシャルハラスメントもそうです。例えば、顧客が従業員に対してハラスメントをしたというときに、それを知っていながら使用者が放置したら、それは使用者にとって職場環境保護義務違反になりますから、契約上の責任を問われると同時に、不法行為責任も問われなければなりません。そういう構図がありますので、いろんなところで応用できる理論だと思います。

もちろん、そういう理論を使わなくても使用者が積極的に不法行為で人権侵害をしたということを認定できれば、それは、それ自体不法行為という責任を問われるわけですから、その理由によって救済することができます。したがって「職場環境保護義務」についてまで言う必要がない場合もありますが、とりわけ本件のように第三者が関与した場合には、その理論が効果的なのではないか、そういうふうに思いまして、私は、「意見書」の中でそういうことを強調したつもりです。

「 高裁判決の評価

最後に、高裁判決を読みました感想です。あとで紀藤正樹先生の解説を楽しみにしておりますが、私は、大変いい判決だと思いました。高裁は、市が「一部勢力の動きに屈しむしろ積極的に動いた具体的行動である」というふうに認めています。したがって、雇止め、不採用にいたる一連の行為、それを不法行為であるといっております。ですので、私が言ったような契約違反という主張は明確には述べられていないけれども、一連の行為は、市が積極的に行った不法行為だと認定したことによって、三井さんの人格権侵害があったと判断しております。

初めてこういう判決文の書き方を学んだ
また、この判決の書き方は特色がありますね。私は、初めてこういう判決の書き方を学びました。つまり、地裁判決に対して、高裁判決が独自に判断を加えた部分を「斜体」で書いています。これはものすごくわかりやすくて、付け加えられた分だけ読んでいっても、高裁の裁判官がどういうところに自分の見識・判断を反映させたのかというのが、非常によくわかるという意味合いを持っております。事件自体は大変複雑ですが、複雑な事実をきちんと理解して、細部にわたって分析されていて、非常に優れた判決だと思いました。

問題点
もちろん問題もあります。最大の問題は、本件の雇用を私的な雇用とみなさずに、公法的な意味合いを持つ法律関係に準ずるものとして、解雇の法理は適用されないとしているところです。三井さんの雇用契約を公務関係の契約に準ずるものだとしてしまうと、公務における臨時職員に関する判例法理を適用することになりますので、今度は、三井さん側が行った主張、すなわち、組織変更が行われる前の館長にパート労働法の適用があるという趣旨の主張を否定することになってしまいます。

ただし、公務の臨時職員に関する判断は、高裁判決の裁判官の独自の判断ではなくて、既に最高裁判決が、公法的な契約というものはこういうものであるという解釈を出していますので、高裁の裁判官がこれに抵抗するのは難しかったのかなと思います。ただ、たとえ公法関係であっても、「特別な事情」があるような例外的な状況では、つまり労働者の期待権が侵害されたというような特別な例外的な状況にあっては、損害賠償が認められるという法理もありますので、公法関係であるといわれただけですべて諦めなければいけないということではないと考えておりますが、しかしこの点、なお課題を残している判決だと思っています。

以上 


注:本稿は、全国フェミニスト議員連盟機関誌『AFER』(2010.5.20)に講演要旨をまとめた木村民子が、録音を元にその原稿に補充加筆したものです。それを原告三井が点検し、その後、浅倉教授に確認していただきました。

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