近畿市民派議員学習会での講演

2008年4月14日
三井 マリ子 

 本日は、近畿市民派議員学習会にお招きいただき、ありがとうございます。豊中駅前にある豊中市の男女共同参画推進センターの初代館長をつとめていた三井と申します。

 会場が豊中市議会だと聞き、びびりました。実は、ここ豊中市議会は、私がセンターの館長だったころ、ある議員が、質問という形をとって、男女平等推進政策、とりわけ男女共同参画推進センターに政治的圧力をかけ続けた舞台だからです。

 しかしながら、議員の政治的圧力について、また、行政が私に対して行った情報隠し、情報操作、嘘偽りについて知っていただくことは、行政のチェック機関という任務を担う議員の皆様にとって、きわめて大切なことだと考え、思い切って東京から参上しました。

 私は、2000年秋、豊中市男女共同参画推進センターの初代館長として働き始めました。その3年半後、2004年3月で雇止めされました。その10ヶ月後、私の首きりには合理的理由ない。すなわち豊中市が私の雇用継続を拒否したことは違法であると、豊中市と財団を相手どって大阪地裁に提訴しました。

 裁判は「館長雇止め・バックラッシュ裁判」と名づけられ、40人の弁護団、800人近い賛同者を擁する支援団体に発展しました。

 しかし、昨年9月の判決は、敗訴でした。無念でした。納得がいかなかった私は、高等裁判所に控訴しました。

 初めてこの裁判を知る方が多いと思いますので、もう少し内容を説明いたします。

 2000年、東京にいた私は、豊中市が建てた男女共同参画推進センターの初代館長を全国公募していることを知り、応募しました。豊中市は全国初の車椅子の女性議員、入部香代子さんがいる市として私は記憶していました。社会的弱者を大切にしているようなプラスのイメージがありました。また私は、東京都議会議員として男女平等推進施策を進めてきた経験があり、行政の建てた箱物に、ふっと息を吹き込み、魂を入れる仕事をしてみたいという意志を持っていました。

 私は、60人の応募者の中から選ばれ、初代館長に就任しました。このセンターは「すてっぷ」と呼ばれました。豊中市民の長い間の夢が実現したものでした。「男女平等の社会をつくることは国の最重要課題」とうたう男女共同参画社会基本法の賜物でもありました。

 私は、館長としてスタッフの仕事の下支えをし、「豊中にすてっぷあり」と言われる、その日を目指して、一生懸命に働きました。すてっぷから徒歩2、3分の地に住まいも移しました。

 しだいに、すてっぷの名が、関西ばかりか全国のメディアにも取り上げられ、広く知られるようになりました。全国から議員をはじめ、男女平等政策に関心のある人たちが視察や見学にやってくるようになりました。こうした私の仕事は、市や財団から評価されこそすれ批判されたことは一度もありませんでした。もちろん、私の仕事は使命感に燃えた多くのスタッフとのチームワークでなしえたものです。

 しかし3年後、豊中市は、「組織体制強化」の美名のもとに、2004年4月からは非常勤館長職をなくして館長ポストを常勤化すると言い出しました。そうなった場合、「第一義的には三井さんです」と言って私をだまし、その裏では「三井は3年で辞めると言った」、「三井は常勤はできないと言った」との嘘をふりまき、後任館長を密かに決めていたのです。

 候補者10人のリストが極秘に作成され、2003年10月には市長にだけ見せて、「それで当たれ」という市長命令の下、候補者打診が進められ、12月には次期館長がひそかに決まっていたのです。

 こうした、極秘裏の行動をしたことによる不自然さは、裁判の過程で、さまざまな証拠から浮かび上がってきました。たとえば、予算要求は、通常の自治体のやり方からは到底考えられない方法がとられていました。すなわち、その年の11月中旬、財団の次年度の予算要求について、市の担当部課と財政課長のヒアリングがあったのですが、常勤館長の候補者打診は、それ以前にすでに予算確保のめどがついたとして、始められていたのです。その理由は、「考え方」を示す文書で、予算要求額が確定していたというのです。これは、豊中市財務規則にも違反していることは明白です。

 さて、2004年1月頃になると、私の後任館長に決まった人が働いていた寝屋川市の広報に、その人の後任募集の記事が載りました。ウェブで次期館長問題が取りざたされるようになり、全国から豊中市に対して疑問の声があがり始めます。さらに、私が「常勤館長をやる意思がある」と書面で表明したこともあって、2004年2月、市は常勤館長の採用試験をすることに決めました。

 そのころの私は、自分の身に危機がせまっていることをなんとなく感じるようになっていました。

 とはいえ、私がすてっぷで働き続けてわずか3年半です。種をまき、たがやし、少しずつ小さな芽が出てきた頃でした。花が咲き、実がなるのは、さあ、これからという時期でした。継続した事業も数多くあり、私はどうしてもすてっぷ館長として働き続けたいと思いました。

 そこで私は、「私にも採用試験を受けさせてほしい」と申し入れました。それしか豊中で働き続ける道は残されていないと思ったからです。私は採用試験に一縷の望みをかけ、受験に臨みました。しかし、試験の数日後、事務所で、隣に座っていた部下である事務局長から茶封筒が手渡されました。私はトイレに行ってそっと封筒を開きました。そこには「不合格」と書かれた1枚の紙が入っていました。その理由は、私には男女共同参画に対する認識が不足しており、リーダーシップに欠けるというようなことだと言いました。こうして私は、2004年3月31日で豊中市を追われました。

 裁判で判明したのですが、その採用試験官には、後任館長候補リスト作成に深く関与し、後任探しに狂奔していた市の人権文化部長が入っていました。採用試験はまったくの茶番だったのです。

 この不公正さを1審は認めています。しかし、慰謝料を支払わないといけない程の違法性を認めることはできないと、損害賠償は否定されました(資料 「判決も認めた被告側の5つの嘘と不公正」)。

 この判決を聞いた私は、「10発殴られたら違法、と言ってやってもいいが、5,6発だろ、我慢しろよ」と裁判官から言われたような気持になりました。

 女性の人権擁護と男女平等の推進を市民の先頭に立って担うべき豊中市が、女性の人権擁護と男女平等施策を誠実に実行してきた女性センター館長を、嘘まみれの陰湿な手法で排除したのです。使い捨てたのです。そしてそのことで、私は、精神的にも経済的にも、計り知れない打撃を受けました。だのに、なぜ、それが違法にならないのでしょうか? 

 ということで、私は控訴に踏み切ったのです。

 さて、なぜ、豊中市は、私を排除したか。その背景を考えてみます。 まず無視できないのはバックラッシュ勢力です。

 お配りしている資料をご参照ください。資料「バックラッシュ年表」「豊中市の原告排除の動き、条例制定、バックラッシュ攻撃」 です。

 2002年秋ごろから、すてっぷや私への攻撃が目立つようになりました。市議会議員のたびかさなる嫌がらせ質問、すてっぷ窓口への妨害行為、市役所周辺での悪質なビラまき、私の講演会における難癖、根も葉もない噂の流布・・・こうした攻撃をする人々は、バックラッシュ勢力と呼ばれます。その勢力は、個人として女性が生き生きと生きていける社会が嫌いです。男女平等を目指す言動も嫌いなのです。

 ですから男女平等を求めて活動する人々やその著書までも執拗に攻撃します。たとえば私に関しては、「すてっぷの館長は、講演会で専業主婦は知能指数が低い人がすることで、専業主婦しかやる能力がないからだと言った」という根も葉もない嘘を、市議会議員自身が、噂と称して流しました。 また、すてっぷに関しては、市議会議員がこの議会の委員会室で、「すてっぷライブラリーの蔵書にある多数のジェンダーフリー関連の図書は、市民に誤解を生む原因になる。一方的思想を植えつけるような図書は、すてっぷをはじめ学校図書館などから即刻廃棄すべきである」と、発言しています。まるで、ナチスの焚書のような言い方です。

 豊中市は、このバックラッシュによる混乱をさけようとします。まず2003年3月に制定を予定していた男女共同参画推進条例案の上程を取り下げました。異例のことでした。そして、その半年後に上程することを約束します。それに向け、市は、事前に議会に説明や意向確認に動きます。市長与党に強固な反対議員を抱える会派に対しては、よりねんごろな事前根回しが続けられたはずです。

 実際、豊中市の男女共同参画推進条例案が議決された委員会の審議は非常に奇妙でした。それまで議会の内外で、「断固反対を貫く」と豪語していただけでなく、その日の委員会でも逐条ごとに反対意見を書いた書面を配布し、反対意見を述べたてていた議員が、最後に賛成の起立に回ったのです。それによって条例は無修正で成立しました。

 ちょうど、そのあたりから、バックラッシュに対峙する姿勢を見せていた市が、対峙どころか逆に私の排斥を画策するようになったのです。

 私は館長というポストでしたが、非常勤職でした。1年更新の身でした。だからといって理由なく辞めさせることはできません。そこで、市は、「組織強化」というもっともらしい案を出して、非常勤職をなくし常勤化するという策を弄したのだと思います。

 もうひとつ、豊中市は、その頃、すてっぷの非常勤職員の雇止め規定を作りたかったことがあります。

 豊中市は、すてっぷの非常勤職の就業規則を、5年を超えて働くことができないように改悪しようとしていました。それを強行すると抵抗することが明らかな館長の私を排除したかったのです。

 市から派遣されてきた事務局長は、こう言ってました。「財団は民間法人のため、5年を超えて雇用したら、『期限の定めのない雇用』とみなされる判例が出ている。すると使用者の都合で雇止めができなくなる」。その対策の必要性を説いていました。

 事務局長は、2003年夏頃には、2004年から、「更新回数の上限を4回とする」というように改悪案を作って管理職だけの会議に出してきました。これは、全員女性である非常勤嘱託職員を全員5年で辞めさせるということです。

 女性の地位向上をめざしているすてっぷの趣旨に真っ向から反するものです。同じ非常勤嘱託職員でもある私は、納得がいかない姿勢を見せていました。

 日本の非正規職員は1000万人とも2000万人ともいわれています。その多くは女性です。ほとんどが低い労働条件、不安定な地位で働いています。そして、雇い主の都合で、本人に不本意な終止符を打たれて仕事をやめさせられている人が多いのです。

 一方、男女平等は世界の趨勢です。その流れを阻もうとするバックラッシュに屈することは、男女平等の歩みをさらに遅くすることであり、行政が決して手を染めてはならないことです。また、労働権を剥奪することは、人間が人間である証を奪うことに等しいのです。たとえ非常勤だろうと、です。雑巾のような使い捨ては、まっとうな人間のやることではありません。

 ぜひ、この裁判に理解を示していただきたい、支援をしていただきたいと、心から訴えます。

 以上

(お断り:講演草稿であり、講演そのものではありません)


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