使い捨てされてたまるか! 

三井マリ子

とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ初代館長
 館長雇止め・バックラッシュ裁判原告       


『おんなの叛逆』53号 2005年12月発行

 2004年3月31日、大阪府豊中市は、私の職場だった「すてっぷ」から、館長である私を排除しました。抹殺した、という表現が当たっているかもしれません。

 これに対して私は、その年の暮、弁護士たちに励まされ、大阪地裁に提訴しました。私の主張は「雇止め、採用拒否は何ら合理的理由がなく、憲法13条、14条、女性差別撤廃条約、男女共同参画社会基本法、豊中市男女共同参画推進条例の基本理念、目的、財団の設置目的に違反して無効であり、不法行為を構成する」というものです。

 提訴に踏み切るまで、ずいぶん悩みました。

 私は、“解雇”後、豊中駅前に借りていたアパートを引き払ったため、東京から大阪まで重い書類を持って毎月通わなければなりませんでした。地下鉄を降り、両腕に荷物を持って階段を上り炎天下の地上に出て、しばらく動けなくなったこともあります。体調がすぐれなかった上に、大阪の暑さに参ったためでした。それに、「私には証拠となるような重要な情報もあまりないし・・・」「裁判なんかしたら、もっと仕事がなくなるのでは・・・」というような気持もあり、気分的にも落ち込んでいました。

 でも、事務所には、寺沢勝子弁護士、川西渥子弁護士、大野町子弁護士、石田法子弁護士、宮地光子弁護士、島尾恵理弁護士、乗井弥生弁護士が待っていました。皆、「このような雇止めは女性差別です。それにバックラッシュ勢力の不当性を明らかにできる初めての裁判です。三井さんだけの問題ではないんですよ」と私を励ましてくれました。

 思い起こしますと、2004年1月12日、「すてっぷ」(館長は私)で催された「住友電工裁判の祝勝パーティ」が提訴へのきっかけでした。そこで、裁判原告の西村かつみさん、白藤栄子さんにお会いしました。お二人の10年近い闘いによって性差別の厚い壁のひとつが崩れたことの意味を、私はあらためてかみしめました。その時、主任弁護士だった宮地光子先生に、「すてっぷ」での私の窮状をお話し、後日、あらためて相談に伺うことになったのです。

 その後、代理人になってくださる弁護士は7人に増え、「訴状」づくりに取り組みました。

 証拠書類を整える作業がもっとも大変でした。肩書は館長でも、実質的には“事業企画部員”といった立場の私は、数え切れないほどの企画を練りそれを運営していたため、ファイルはその分野に関する書類で一杯でした。こんな事態になるとは予想だにせず、組織に関する事務的書類はほとんどファイルしていませんでした。しかし、この裁判に必要なものは、その種の文書でした。どうやって裁判に必要な書類を集められるのだろうかと考えると深いため息が出ました。

 そんな時、無料の欧州往復航空券があることに気づきました。過去数年、東京・大阪間の往復に飛行機を使うことが多かったため、マイレージがたまっていたのです。私は、ドイツのラーベンスブリュックにある女性だけの強制収容所を見に行こうと、1週間の旅に出ました。ラーベンスブリュック収容所は、女性解放運動家、社会主義者、共産主義者、同性愛者が欧州全土から連れてこられ、強制労働の末に虐殺された場所です。博物館は、国ごとのコーナーに分けられ、遺品や関係書類が陳列されていました。ナチスは、証拠を残さないようにすべてを焼き尽くして逃げ去ったと言われています。それなのに、どうやってこうした証拠を見つけ出したのだろう。そこに、すごい力を感じました。

 帰国後、私は、証拠探しに再び取り組みました。約4万字に上る「訴状」が完成したのは、提訴した2004年12月17日の明け方でした。

 私が、大阪府豊中市で仕事をしていたことすら知らない人も多いので、そこから話をします。


■女性の力になろうと初代館長に

 2000年春、東京の自宅でパソコンに向かっていた私は、豊中市に「すてっぷ」という名の男女平等政策の拠点ができ、その初代館長が全国公募されているのを知りました。男女平等のために作られた新しいセンターに魂を吹き込む仕事。あ、これはチャレンジする価値がある、と思いました。募集要項を見ると年齢制限がありません。性別、国籍、学歴、住所も問われません。

 関西に住んだことはありませんでしたが、興味はありました。女性運動にかけては西高東低といわれるくらい関東より元気な女性が多く、豊中市では、日本初の車いす女性議員も頑張っています。

 応募したら、幸いにも採用されました。後で聞いた話ですが、応募者は六十人を超えていたそうです。しかも、全国に何百とある女性関連のセンターで、公募で採用されて働く館長は、当時、私一人だったということでした。

 「すてっぷ」の正式名称は「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ」。舌をかみそうなくらい長く、普通の市民に覚えてもらえる表現とはいえません。そもそも男女共同参画とは、英語でジェンダー・イコーリティー、つまり男女平等です。女性が男性と同等に個人として尊重され、あらゆる仕事を性にかかわらず、平等に分かち合えるようになることです。それなら「男女平等」でいいと思うのですが、男女共同参画社会基本法が施行された1999年あたりから、このカタイ表現が使われるようになりました。「すてっぷ」は、その男女共同参画を豊中市のすみずみに浸透させるための総合施設です。講座の企画、情報の提供、相談事業をしたりします。場所は、阪急宝塚線で梅田から十分の豊中駅前。伊丹空港からも車で七、八分。抜群の立地条件です。

 さあ、ここを拠点に何ができるか。

 私は、二十代から「男女不平等」をなくす運動をしてきました。それが高じて東京都議会議員を二期務めました。都議だったころ、日本の行政機関としては初めて都にセクシャルハラスメントの相談窓口を新設させました。母子寮の改善や民間シェルターへの財政支援にもかかわりました。東京都ウィメンズプラザの設計に女性建築家を登用するよう提言し、実行させました。私はこうした経験から、行政の側から女性のためにすべきことは無限にあると思っていました。

 たとえば、日本のパート労働者のほとんどは女性です。その働きぶりにくらべて賃金はあまりに低い。それに、いつ辞めさせられるかもわかりません。セクハラは日常茶飯事。夫の暴力に泣き寝入りしている女性も大勢います。一方、こうした深刻な社会問題を解決する場である国や地方の政界は、あいもかわらず男性がとりしきっています・・・。女性問題は男性問題でもあるがゆえ、解決への道筋には困難が伴います。「すてっぷ」には、便利な場所と有能なスタッフと、かなりの予算があります。これを駆使すれば、女性の現状を変えたいと願う市民たちを下から支える企画は、いくらでもできます。

 こうして、2000年秋から私の関西生活が始まりました。週22.5時間の非常勤ではありましたが、与えられた時間と権限をフルに使って最大限の努力をしました。スタッフの献身的努力もあり、その結果、「すてっぷ」の名は関西ばかりか全国のメディアに取り上げられ、広く知られるようになりました。


■解雇の画策じわりと

 ところが、2004年2月1日、豊中市は臨時に「すてっぷ」理事会を開き、「組織強化」と称する改革案を提案し、通しました。その中身は「非常勤館長を廃止し、館長は事務局長兼務の常勤職とする」ものでした。その臨時理事会では、新館長は公募とせず、理事長の任命する採用選考委員会で選考することも決まりました。

 その頃の私は、自分の立場が危機的状況にあるということはわかっていましたが、あえて採用試験を受けたいと申し入れました。それしか残された道がなかったからです。この私の希望は、1,2日前に文書にしたため全理事・評議員に郵送していましたが、読んでいない人がいると考えられたため会議の場で読み上げました。

 「すてっぷが開設され3年半。これからも大きく飛躍するために重要な時期になった。これまで評価していただいた事業を、さらに継続発展させ市民に一層親しまれるすてっぷにしたい。そのために、館長職を継続して務めることが、組織強化の議案の趣旨に合致するのではないか。これまでの私は非常勤であり、不安定な労働条件のもとにあったが、そのなかで精一杯頑張ってきた。今後、常勤職として、これまでの経験と蓄積を生かして働くなら、すてっぷをより発展させることにつながる。パートタイム労働法8条に基づく指針からみても、非常勤館長が常勤になるのだから、非常勤であった私が優先的に採用されることが指針の趣旨に合致すると考える」

 私の発言を支持する理事が数名おり、私にも採用試験を受ける機会は与えられました。

 当時の私は、多くの事業を予定どおり遂行しなければならない中、市が次々に出してくる組織変更案に翻弄されっぱなしでした。それから来る疲労感、首を切られるかもしれないという恐怖心、信頼してきた部下(市の派遣職員)から嘘をつかれてきたことの屈辱感から、眠れない夜をすごしました。

 しかし、まだ絶望するのは早い。理事の良心に賭けよう。こう思って2004年2月22日に設定された面接試験に臨みました。

 しかし、市は03年秋頃から極秘に後任館長の人選を進め、10人の候補者リストを作成し、一人ひとり打診をしては次々に断られていました。そして、私が受けた試験の2ヶ月ほど前に、やっと一人受諾する人が現れ、市当局は、ただちにその人を次期館長に決めました。
採用試験は茶番劇だったのです。

 それをはっきり知ったのは、試験が終わってだいぶ経ってからでした。候補者の中には私の知人もおり、「三井さんは最初から3年の契約だった」と言われて後任に打診されたが断ったと教えてくれました。「すてっぷ」の次期館長に決まった人が働いていた寝屋川市では、4月から空くポストを補充するため職員募集を開始していました。そのひとつである寝屋川市広報の発行日は、2004年1月15日でした。つまり、採用試験のはるか前から豊中市は私の後任を決めていたのです。

 面接試験があった2004年2月22日の3日後、茶封筒が市派遣の事務局長から私に手渡されました。トイレに行ってそっと茶封筒を開きました。そこには「不合格」の文字がありました。


■「男女平等」へさまざまな妨害

 なぜ豊中市は、私を排除したのか。狙いは2つあると私は思います。
 2002年秋頃から、「すてっぷ」や私へのある勢力からの攻撃が目立つようになりました。市議会議員の度重なる嫌がらせ質問、「すてっぷ」窓口への妨害行為、市役所周辺での悪質なビラ撒き、講演会における難癖、根も葉もないうわさの流布……こうした攻撃をする勢力は、男女平等を敵視し、旧来の固定的性別役割にこだわります。そこで主に男女共同参画を進める行政をターゲットに、全国的組織を使って圧力をかけてきます。このような現象は、世界的にバックラッシュBacklash(反動)と呼ばれています。男女平等 逆行の動き―バックラッシュ年表をごらんになると、いかにバックラッシュが日本中を席巻しているかがわかるはずです。

 豊中市は、2002年、懸案の男女共同参画推進条例制定にとりかかりました。この議会審議の過程で、自民党や新政とよなか(民主系)の一部男性議員からいわゆるバックラッシュ発言が相次ぎました。その一人、北川悟司議員は、宇部市で制定された条例をモデルに引き、旧来の男らしさ・女らしさにこだわり、専業主婦の役割をことさら高く評価するよう主張しました。

 北川議員は、2002年8月2日常任委員会での質問をこんなふうに締めました。

 「最後に東京女子大学の林道義教授の示唆に満ちた論文の一部を紹介し質問を終りたいと思います。『男女平等に隠された革命戦略  家族・道徳解体思想の背後に蠢くもの』という論文の冒頭部分であります」

「ジェンダーフリー運動は、その勢力が周到に準備し遂行している革命戦略の一環である。この革命勢力の常套手段は、口当たりのいいテーマ(たとえば平和と民主主義)を選んで運動を進め、その中で秩序や道徳を腐食させていくという戦略である。今は男女平等やジェンダーフリーという言葉を隠れ蓑として利用しているにすぎない。男女共同参画社会基本法を盾に上から命令を下し、ついには学校教育を握って子どもの洗脳をもくろむところにまで来ている。今や日本中が文化大革命の様相を呈しているのである。家族を破壊し、日本を腐食させる彼らの隠された革命戦略を暴き警告を発したい」

 北川議員が「示唆に満ちた」と持ち上げる林道義教授の文章によれば、フェミニズム運動は日本の健全な文化と秩序を内部から崩す勢力のやることなのだそうです。私から見れば、「男女不平等」こそ、日本の極めて不健全な文化と秩序といえるのですが。

 北川議員はたびたび「すてっぷ」についても質問しました。具体的には、受付窓口対応、情報ライブラリーの蔵書内容・選定者などを槍玉にあげました。

 2002年12月の議会では、情報ライブラリーについて、こう述べています。
 

「すてっぷライブラリーの蔵書の中にある多数のジェンダーフリー関連の図書は、市民に誤解を生む原因になります。一方的な思想を植えつけるような図書は、すてっぷをはじめ学校図書館などから即刻廃棄すべきである」

 まさに、これは私がドイツ旅行で知ったナチスの「焚書」そのものでした。

 一方、「すてっぷ」には、利用者風情の人物が複数やって来て、「館長はいるか」「ここの主は誰だ」「館長はなんでいないのか」(私は週22.5時間の非常勤)などとすごみ、窓口業務を妨害しました。

 頻繁に圧力をかけてきた一人は、北川議員が理事長を務める「教育再生地方議員百人と市民の会」の事務局をしている男性でした。訴状ではMと称していますが、「教育再生地方議員百人と市民の会」のホームページには実名が出ています。

 この「教育再生地方議員百人と市民の会」は、「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」と密接なつながりを持つ組織で、教育基本法の改正が目標だそうです。1999年設立。吹田市に事務局を置き、西村真悟、塚本三郎、亀井郁夫などの現・元国会議員、宇部市議や東京都議に加え、藤岡信勝、高橋史朗、などの諸氏が参加しています。北川議員は、1999年ごろから教科書採択問題、国旗国歌斉唱、性教育などについて議会で執拗に質問をし、節目節目で「産経新聞」が彼の発言を持ち上げています。その後、彼のターゲットは男女共同参画に移りました。
講演会における妨害行為もありました。

 2002年11月21日、「すてっぷ」のホールで開いた三井マリ子館長の講演会「男女共同参画イロハのイ」。講演終了後の質問時間に、「一市民」と称する「男女共同参画社会を考える豊中市民の会」の女性2人が、「あなたは結婚しているか」「子どもを育てたことがあるか」「子育てと介護は私には人生の喜びだ。どう思うか」「宇部市条例に賛成か」「自衛隊への女性進出をどう思うか」などと発言しました。私はすべてに回答しましたが、会終了後も事務室までついてきて「もっと質問がある」などと繰り返しました。別の来客があった私は、それを伝えて彼女に帰っていただきました。

 この日のことが、チラシに次のように書かれ、1週間くらいして、市役所前で撒かれました。

 「すてっぷの三井マリ子さんは、男女共同参画社会についての市民からの質問に答えない! 逃げている!」

 そのチラシには、ジェンダーフリーの実態は男性と女性の区別がつかなくなった社会だとか、フリーセックスを奨励して性秩序を破壊するものだ、といった宣伝文句が書かれていました。チラシは「男女共同参画社会を考える豊中市民の会」という団体名で作られていました。


■ジェンダーフリーという表現について

 ここで、バックラッシュ勢力が常に攻撃の的にする「ジェンダーフリー」という用語について少し説明します。

 男女の差異には、「生物学的性=セックス」による差と、「社会的文化的につくられた性=ジェンダー」による差があります。
前者は、遺伝子の配置や解剖学上の特徴による生物学的な性=セックスにもとづく差異です。他方後者は、男女それぞれにふさわしいとされる行動や態度です。例えば、「男は外、女は家」という性別による役割規範や、「男らしさ」「女らしさ」というような典型化された男女の特性による行動規範です。これらは前者と違って、社会的・文化的・歴史的に、人為的につくられた性=ジェンダーによる差異です。

 ここで重要なことは、このジェンダーによる差は、男性優位の社会秩序をつくり出し、補強し、維持してきた点です。

 まだまだ残る女性差別ですが、その原因は、生物学的性=セックスの差にあるというより、むしろ人が社会的・文化的につくり出した性=ジェンダーによる差にあります。それゆえ、ジェンダーに敏感な視点で、教育、家事、労働等あらゆる分野において、あらゆる形態の女性差別を見直し、男女平等を実現しようとしています。これが国連をはじめ世界各国の潮流です。

 さて、日本では、90年代後半から主として行政において、社会的文化的につくり出された性=ジェンダーにとらわれないことを「ジェンダーフリー」と呼ぶようになり、性による格差の解消や性による呪縛からの自由といった意味合いで、この表現が広く日本で使われるようになりました。「ジェンダーフリー」を使い始めたといわれる東京女性財団の意図や問題点、その後の経緯については山口智美さんの論文「ジェンダーフリーをめぐる混乱の根源」を参照してください(『くらしと教育をつなぐWe』2004年11月号、2005年1月号)。

 ちなみに、私はこの「ジェンダーフリー」という言葉を一度も使ったことがありません。この言葉は日本の女性運動過程では問題があると思ったからです。ジェンダーは「性」であり、性差とは訳せませんし、まして性差別でもありません。さらに、英語ではジェンダーフリーという場合のフリーは、「〜からの自由」ではなく「〜がない」にあたります。よって「ジェンダー(性)がない」と取られ、ジェンダーに起因する差別に着目しない、という逆の意味になってしまいます。これでは、積極的差別是正策など女性へ暫定的特別措置を実行しにくい。実際、アメリカでは男女平等の推進や女性の地位向上の運動を進めていく際には、「ジェンダーに敏感」というジェンダーセンシティブという表現が用いられることが多いのです。

 つまり、日本の行政などが使ってきた意味合いのジェンダーフリーは和製英語に近い。悪いことに、日本でもバリアフリー、スモーキングフリーなどのカタカナ英語は使われていますので、ジェンダーフリーを「ジェンダーがない」ととる人が、男女平等推進者にもいます。

 以上のような、この言葉の持つあいまいさにつけ込んだのが、バックラッシュの勢力です。同勢力は、あえてジェンダーとセックスを混同し、「ジェンダーフリーとは性差を撤廃することで、学校などでトイレ、更衣室、身体測定を男子と女子で同じくする動きである」といった大嘘を触れ回っています。そして、ジェンダーフリーを主張する側を、性差の完全撤廃をめざし社会制度を破壊する連中である、などとねじ曲げ・誇張して攻撃するのです。


■でっちあげ中傷流して

 さて、豊中市は、2003年3月に制定を予定していた条例案を、バックラッシュ勢力による執拗な攻撃によって上程をいったん取り下げました。

 2003年夏になると、窓口に「館長に会いたい」「いつも館長は不在か」などという男性がやってきて受付職員にセクハラまがいの発言までしていきました。また、トイレの色が男女で同じだ、とか、前々から「すてっぷ」に不満だった、などと職員にからんだりすることもありました。「三井の過去を知ってるか」というような、実名を名乗らない男性からの電話もありました。
 2003年秋、いよいよ条例制定が間近になると、私への個人攻撃はさらに激しくなりました。とくに悪質だったのは、「すてっぷの館長は、講演会で『専業主婦は知能指数が低い人がすることで、専業主婦しかやる能力がないからだ』と言っている」という根も葉もないうわさが広まったことです。豊中市にあるモラロジー会館での北川議員の催す集会で、“誰かがみんなの前で言った”というのです。女性の市議が私に変なうわさが流れていることを教えてくれました。

 その後、「すてっぷ」を所管する市役所の人権文化部職員が、三井を誹謗中傷するうわさを聞いていたことが、私の耳にはいりました。変なうわさを流していた人物の1人は、市議会副議長の大町議員でした。副議長は、市議会では北川議員と同じ「新政とよなか」という民主系会派の所属です。

 少々の悪口なら昔から慣れっこです。しかし、市議会の副議長の重責にある人物が、「すてっぷ」館長の誹謗中傷のうわさを自ら流布したとなると、これは聞き捨てなりません。館長としての私の業務に直接の影響が及ぶきわめてたちの悪いものです。「すてっぷ」の存在すら脅かしかねません。

 私は、じかに副議長に会って質そうと思いました。そのために、まず市役所に行き、副議長から直接言われたという人権文化部長、男女共同参画推進課長、そのほか市の男女共同参画行政関係者に同席をお願いしました。でも、断られました。「すてっぷ」の事務局長にも同席を依頼しましたが、それも断られました。事務局長は、市の意向を反映するために「すてっぷ」に派遣された職員なのですから、上司にあたる部長が同席しないなら事務局長も同席しないのは今思えば当然のことでした。でも、事務局長を仕事上のパートナーとして信頼していた当時の私は、「すてっぷ」の発展のため腰をあげてくれるのではないかという希望を抱いていました。

 しかたなく、一人で行くことにしました。
 ところが、です。最初は「個人として行くことまで止めるわけにはいかない」と言っていた部長ですが、その後、「個人としても行かないでほしい」というようになりました。「副議長と会った時、館長が市役所で市側と前もって話をしたということは絶対言わないでほしい」とも言い出しました。
「三井個人として行くことはやむをえないと言っただけ。市が面会を認めたわけではない」とまで言うようになりました。さらには、次のような強い発言までありました。
 

「市が再三お願いしたにも関わらず、館長が独自に行動に出たというふうに、こちらとしても考えるしかありません」

 結局、私は副議長室で副議長に面会しました。私はメモに従って、いつどこでどなたから聞いたかという質問をし、副議長から「誰からとは言えない。6月24日のジオコミュニティーでの館長出前講座で発言したといううわさだ」という発言を聞き出しました。帰り際、ドアのところで、副議長は「その講座には市から誰か行っていたのか」と私に聞きました。私は「山本瑞枝事務局長が同席していました」と応えました。こうして面会は、ものの数分で終わりました。

 その講演会の証人と言える「すてっぷ」の事務局長は、私への根も葉もないうわさを副議長に、または部長などを通じて間接的にでも、否定してくれたものと信じていました。しかしこの悪質な誹謗中傷に、事務局長はなんら対処せず放置していたことがわかりました。

 市幹部と事務局長が、なぜそろいもそろって私が副議長に会うことを必死に止めにかかったのか。私にはきわめて不可解でした。市の幹部たちは、私に対する事実無根の中傷を市議会副議長が口にするのを、どんな態度で聞いたのでしょうか。「こういうとんでもないうわさが流れているが、どうなのか」と、なぜ私に直接聞いてくれなかったのでしょうか。

 一方、市議会では、こうした私への誹謗中傷のうわさが流されたと同じ時期、2003年3月に上程が見送られた男女共同参画推進条例案の審議がされていました。

 市から出された条例案は、審議会答申からかなりレベルダウンしたと私には見えました。

 実効力のある条例を求めて運動してきた「男女共同参画社会をつくる豊中連絡会」に集う人たちも、同じような感想を持っていました。しかし、議会は、条例化そのものに反対する声が圧倒的であり、答申にそった条文にしてほしいという声はかき消されました。反対の急先鋒である北川議員は、常任委員会で市の条例案への自作の対案を示し、逐条ごとに市の案に反対意見を延々述べました。ところが、与党である新政とよなか所属である北川議員は、最終的には賛成採決に回ります。条例案には反対だが、他の議案と一括採決だからという理由でした。はじめから落としどころを決めた芝居のようでした。その結果、賛成多数で男女共同参画推進条例は成立し、2003年10月10日制定・公布されます。


■追及、脅しもまじえて

 私への攻撃は終わりませんでした。

 2003年11月15日の夜7時。私は市役所に呼び出されました。勤務のない土曜日の夜ですから、市役所は薄暗く人っ子ひとりいませんでした。「すてっぷ」の事務局長と私は、会議室に連れていかれました。そこで、北川市議と、その関係者で「市民」と称する3人の女性から、事務局長と私が、前年2002年12月4日のファックス送信文書の件で糾弾を受けたのです。それは、「すてっぷ」が一連のバックラッシュ攻撃をまとめ、事務局長名で理事・監事・評議員にファックス送信した内部文書が、1年後に北川議員の手に渡り、市当局が北川議員から怒鳴られたというものでした。

 自称「市民」の3人は、北川議員を目の前にして、こう私たちに発言しました。

 「すてっぷは三井カラーに染まっている」

 「三井さんは本などでも自分を明らかにしているが、事務局長は市の職員だ。公務員として中立にいるべきだ」

 「三井さんを館長にしている市の責任を問題にしているのだ」

 市の武井男女共同参画推進課長と米田主幹は、その会議室のテーブルの端の方に座って一部始終をじっと聞いていました。「市民」側の最終要求は、「ファックス送信記録の提出」「市の広報とすてっぷジャーナルへの謝罪文の掲載」「市からすてっぷへの指導監督強化」「ファックス記載内容から特定できる個人に対する直接謝罪」の4点でした。

 終わったのは夜10時。男女共同参画課のある人権文化部の部屋にもどったら、そこには人権文化部の次長クラスにあたる人権文化まちづくり推進室長が一人いました。私は「北川議員がテーブルをバーンとたたいて恫喝した」と話したところ、彼は「ここまで聞こえた」と応えました。

 市当局は、当初、北川市議を中心とするバックラッシュに対峙する姿勢を見せていましたが、03年の秋頃になると、対峙どころか逆に私の排斥を画策するようになりました。つまりバックラッシュ勢力の政治的圧力に屈したのです。バックラッシュ勢力に飲み込まれ、非常勤職の私の首斬りを断行した、と私は考えています。これが、私を排除した第一番の理由です。


■裁判は21世紀の奴隷解放運動

 第二の理由ですが、「すてっぷ」の就業規則によれば、館長を含む嘱託職員は、よほどの事がない限り何回でも更新が可能です。館長は定年がなく、他は60歳定年です。ところが、市は、03年夏、館長を除く嘱託職員の就業規則を「更新回数の上限を4回とする」に改悪する案を出してきました。嘱託職員は全員女性です。つまりこれは女性差別でもあるのです。女性の権利を守るべき「すてっぷ」にあるまじき行為であり、この雇止め案に私が賛成するはずもありません。それに私自身、非常勤職員であり、たとえ、その場の規則改革に館長が含まれてなかったとしても、これは私の問題でもありました。強行すれば抵抗することが明らかな私を、市は疎ましく考えたのでしょう。

 こうして、豊中市と財団は、非常勤館長廃止と常勤館長採用拒否をセットにする手口で、私を“解雇”したのです。女性の地位向上政策を遂行するべき豊中市が、バックラッシュ勢力に屈し、かつ非正規職員の雇止めを強行するために、非常勤管理職の首を切ったのです。情熱を傾け誠実に働き続けた私は、非常勤職ゆえ、このような嘘と謀略に振り回された挙句に使い捨てとなりました。

 北欧だけでなく多くのヨーロッパ諸国は、非正規職員と正規職員の雇用条件は同等と定められています。4年以上勤務すると正規職員とみなされる国もあります。雇止めは事実上の解雇であり、きちんとした理由がなければ不当解雇とされます。

 一方、日本の正規職員と非正規職員の雇用条件には雲泥の差があります。非正規職員は雇用主のご都合で首を切られる可能性があり、魂まで雇用主にささげることを期待されているのです。まるで奴隷のようです。その意味で、この裁判は21世紀の奴隷解放運動だと私は思っています。

 現在、裁判は大阪地裁で第3回目の口頭弁論を迎えようとしてます。第1回、2回の口頭弁論が終わり、被告豊中市と財団は、原告側の主張を否定しました。
 私が最も悔しかったのは、「非常勤館長としての原告の仕事には、継続的・長期的取り組みが必要であるとされていたものはなかった」と被告側が述べた点です。非常勤である私に「継続的・長期的」仕事は期待してなかった、非常勤館長なんて大した仕事をしてない。だから首は簡単に切れる、と言いたいらしいのです。

 「女性は大した仕事をしていない、だからいつでも使い捨てOK」と思っている会社は日本にたくさんあります。豊中市の態度はこうした性差別的企業と酷似しています。私が訴訟を決意したのも、まさにこの点が許せなかったからです。

 では、私が館長としてやった仕事はそんなに軽かったのでしょうか? 継続性も長期的展望もなかったのでしょうか?

 世界一の男女平等国家ノルウェーから、大臣級の男女平等オンブッドをわざわざ豊中市のために呼んできたのは誰なのか? 女性議員輩出策の世界的切り札といわれるクオータ制を世界で初めて実践したオスロ大学教授(同国初の女性党首)をわざわざ豊中市のために呼んできたのは誰なのか?「英語でエンパワーメント」で、館長自ら教科書と指導要領を作り講師も務めた、あの企画は誰が立てたのか?

 世界の女たちの置かれた状況を雄弁に伝えるポスターの展示。北欧で自ら買い求めたDVシェルターのビデオ映像の紹介。これらはそんなに軽い仕事だったのか?

 しかし、情熱を傾け誠実に働き続けた私は、非常勤職ゆえ、嘘と謀略に振り回された挙句に使い捨てとなりました。先進諸国では、このような使い捨ては、過去のものとなりつつあります。

 行政権力を相手にする難しい裁判です。支える運動がなければ勝てません。幸いにも原告の私を応援してくださる「ファイトバックの会」という会ができました。代表は上田美江さん(スペースえんじょ)、副代表は名取みさ子さん(東京都日野市議)です。

 私はがんばります。どうか、一人でも多くの方のご支援をお願いします。なお、ファイトバックの会は最新情報をブログで、重要書類をホームページで公開しています。ごらんください。

HP http://fightback.fem.jp/

 

(出典:『おんなの叛逆』53号 特集・「男女平等は害悪」の嵐2005年12月3日発行)


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