問答無用の雇止めは人格権の侵害(「VOICE」第185号 2010年11月−12月)

三井マリ子          
「すてっぷ」初代館長、原告

Voice表紙

 『Voice』から原稿の依頼をいただき、あらためて表紙を見直しました。通算184号! 長い運動を物語っています。日本は、いまだに「非嫡出子の相続分は嫡出子の半分」と決めている民法を改正しようとしない、破廉恥この上ない国です。まだ当分、『Voice』をやめるわけにはいきませんね。

世界で初めて婚外子差別を撤廃した国ノルウェー
 今春、私は、 『ノルウェーを変えた髭のノラ――男女平等はこうしてできた』(明石書店)を出版しました。文豪イプセン『人形の家』の主人公ノラが、「私は何よりもまず人間です」と言い残して家を出てから130年たったノルウェーの現地ルポです。
 ノルウェーは、1915年、世界で初めて、親が結婚していようといまいと、子どもは同じ法的権利を持っている、と法律で決めた国です。この革命的法律は、提案者の社会福祉大臣カストベルグにちなんで「カストベルグ法」と呼ばれてきました。
 ノルウェー女性が選挙権を得たのは1913年です。やっと女性が国会議員になれたばかり、という時代に、いったいどうしてこんな法律が誕生したのか、調べてみました。
 この法の影には、カッティ・ムッレルという素晴らしい女性解放運動家がいました。実は、この法は「カストベルグ法」より「ムッレル法」と呼ぶほうが正しかったのです。
 彼女の親は、ノルウェー初のフォークハイスクールを創設した人でした。フォークハイスクールは「人生のための学校」と言われ、農民を対象に対話や討論を重視した参加型教育機関でした。彼女は幼い頃から、この自由な雰囲気の中で暮らし、政治的発言も活発にしていました。
 成人した彼女は、シングルマザーの家をいくつも設立し、困窮にあえぐ女性たちに手を差し伸べます。同時にシングルマザーの権利のための法律、すなわち、婚外子差別撤廃法制定に力を注ぎます。彼女の姉がカストベルグと結婚していたことが幸いしました。すでに国会議員として活躍していた義理の兄・カストベルグに向かって、カッティ・ムッレルは、日夜「親が結婚していようといまいと、子どもは同じ権利を持ってもいいのではありませんか」と説いたに違いありません。

裁判したから書けた『ノルウェーを変えた髭のノラ』
 日本でほとんど知られていないノルウェー女性の闘いについて、本を書くことができたのは、ノルウェー語をほんの少し勉強したからです。
 2009年5月、「館長雇止め・バックラッシュ裁判」の控訴審が結審となりました。判決の日まで、まとまった時間ができました。私は、20年前から取材してきたノルウェー女性解放史を仕上げてみようと思い立ちました。まず、その夏、オスロ大学夏季講座で特訓を受けました。若者に混じっての授業はハードで、あやうく落第するところでした。おかげで英語に翻訳されていないノルウェーのエピソードを読むことができるようになりました。そう、私は、提訴したからこそ、『ノルウェーを変えた髭のノラ』を書くことができたのです。

全国公募の「すてっぷ」初代館長に
 ノルウェーについては本を読んでいただくとして、ここでは私の裁判について述べます。「館長雇止め・バックラッシュ裁判」を知らない方も多いでしょう。まずは、そこから説明します。
 この裁判は、私が大阪府豊中市ととよなか男女共同参画推進財団を相手に、訴えていたものです。全国公募の応募者60人以上の中から館長に選ばれた私が、雇止めという名の“解雇”処分を受けました。私は、泣き寝入りしたくなかったので、法廷に訴えました。一審は敗訴でした。しかし、2010年3月、高裁で逆転勝訴 となりました。
 私は、20代の頃から「男女不平等」撤廃運動に取り組んできました。それが高じて東京都議を2期務めました。議員だったころ、日本の行政機関としては初めて、都にセクシャルハラスメントの相談窓口を新設させました。母子寮の改善や民間シェルター(暴力を受けた女性の避難所)への財政支援にもかかわりました。「なくそう戸籍と婚外子差別・交流会」の前身「住民票続柄裁判交流会」に出会ったのも、この頃です。
 また、世界一の男女平等国とされるノルウェーの女性政策について調査に携わったことがあり、仕事と家庭を両立できる女性を増やすためには、ノルウェーのような公的サポートが不可欠だと確信していました。こうした経験から、行政が女性の地位向上のためにすべきことは、無限にあると思っていました。
 たとえば、日本のパート労働者のほとんどは女性です。その働きぶりにくらべて賃金は余りに低いし、いつ辞めさせられるかもわかりません。セクハラは日常茶飯事です。夫の暴力に泣き寝入りしている女性も大勢います。一方、こうした深刻な社会問題を解決する場である政界は、あいかわらず男性が取り仕切っているため、らちがあきません。
 2000年春、パソコンに向かっていた私は、豊中市に「すてっぷ」という名の男女平等推進の拠点ができて、初代館長が公募されているのを知りました。男女平等のために作られた新しいセンターに、魂を吹き込む仕事。これはチャレンジする価値がある、と思って応募しました。こうして2000年夏から私の大阪生活が、スタートしました。

土曜の夜、市役所で糾弾されて
 ところが02年秋頃から、「すてっぷ」や館長の私への攻撃が目立つようになりました。 「すてっぷ」窓口への妨害行為、市役所周辺での私の実名を記しての悪質なビラ撒き、講演会における難癖、私を誹謗する根も葉もない噂の流布……こんな攻撃を仕掛ける勢力は、「教育再生地方議員百人と市民の会」という国粋主義的な政治団体とかかわりを持つ人たちでした。しかも豊中市長の与党の「新政とよなか」の北川悟司議員(当時)が、理事長を務めていました。北川議員は議会でたびたび「すてっぷ」についても質問という形をとって注文をつけました。
 「すてっぷライブラリーの蔵書の中にある多数のジェンダーフリー関連の図書は、市民に 誤解を生む原因になります。一方的な思想を植えつけるような図書は、すてっぷをはじめ 学校図書館などから即刻廃棄すべきである」(02年12月議会)。
 ナチスの「焚書」を思わせる質問でした。こうした嫌がらせの集大成的な事件が、2003 年11月15日(土)におきました。館長の私と事務局長(市からの出向)は、ひと気のない 豊中市の会議室で、夜7時から10時まで、北川議員とその支持者3人から糾弾されたのです。3人は、「私たちは三井さんを館長にしている市の責任を問題にしているのだ」などと 非難し、時折、北川議員が大声で口をはさみ、最後にテーブルをバーンとたたきました。同席した市の幹部は、黙って下を向いていました。

バックラッシュ勢力による攻撃
 1999年、男女共同参画社会基本法が国会を通過すると、多くの自治体で、同法の趣旨を徹底させるための条例の制定に取りかかりました。また、男女平等の社会を構築していくための拠点施設もでき始めました。「すてっぷ」は、まさにそんな施設のひとつでした。
 一方、こうした動きに対抗するように、男女平等を嫌う勢力から執拗な攻撃が始まりました。その勢力は主として、国会や地方議会で「議員の質問」という形をとって、その行動を開始したのです。全国で「ジェンダーフリーは女性の敵だ!」を合言葉に、男女平等を進める施策を踏み潰しては快哉を叫ぶようになりました。豊中市議会も、同じでした。
 こうした男女平等つぶしの組織的動きは、バックラッシュと呼ばれます。アメリカの女性解放運動への攻撃についての本『バックラッシュ』(スーザン・ファルーディ、1991)がベストセラーとなったことから、男女平等の流れを逆流させようとする反動現象をこう呼ぶようになった、というのが定説です。

「組織強化」の名の下に
 2004年2月、豊中市は臨時に「すてっぷ」財団理事会を開き、「組織強化」の美名のもとに「非常勤館長を廃止し、館長は事務局長兼務の常勤職」としました。この常勤館長職は公募とせず、採用選考委員会で選考することも決めました。その理事会で私は、非常勤館長としてこれまで評価されてきたのだから私を常勤館長にしてほしいと述べ、採用試験を受けたいと申入れました。その頃には、市民から「三井館長続投要求」が激しくなっていたこともあり、市は私にも試験の機会を与えました。私は採用試験に臨みました。しかし不合格とされ3月末で館長の座を追われました。
 市は03年10月から極秘に後任館長の人選を進め、11月から次期館長就任の要請をしていたのです。採用試験2ヶ月前の03年12月、すなわち理事会の2ヶ月も前に新館長を決めていました。採用試験は茶番でした。しかも市は、次期館長候補者や関係者に「三井は常勤はできないのだ」「三井は最初から3年間ぐらいの契約で・・・」などという嘘を振りまいていました。

女性差別と闘う裁判
 私の首切りは、常勤館長だったら起こりませんでした。館長とはいえ、私の身分は非常勤職だった。だからこそ、使い捨てできたのです。日本には非常勤労働者が1500万人はいるといわれています。その多くは女性です。
 泣き寝入りすることは、私には到底できませんでした。豊中市から放逐された後、証拠を集め、04年12月、大阪地裁に提訴。それから3年間、東京大阪の往復を月に3、4回続ける日々を送り、07年秋、地裁の判決を迎えました。俊英弁護団に支えられ、勝訴を疑わなかった私は、敗訴判決に打ちのめされました。「あんた非常勤だろ、10発殴られたのなら、救ってやってもいいが、5、6発ぐらいは我慢しろ」と、裁判長から言われたようでした。
 当然、控訴。第2ラウンドでは、龍谷大学の脇田滋教授と早稲田大学の浅倉むつ子教授が、一審判決を痛烈に批判する意見書を書いてくださいました。

ノルウェー女性に励まされながら迎えた勝訴判決
 2009年5月の結審後、やっと自由な時間ができました。私は、辞書を引き引きノルウェー語の文献を読み、パソコンに向かって執筆にとりかかりました。
 ノルウェー女性は1913年に参政権を獲得していました。その当時のノルウェー国会の記録を読んでいたら、ノルウェーにもこんな女性参政権つぶしの声が上がっていたことがわかりました。
「女性の投票は自然の摂理に反する。家庭崩壊を招く」
「女性には男性にはない別の使命がある」
「男女平等は不幸のもと。両性にはそれぞれ自然な役割というものがある」
今日の日本のバックラッシュ勢力の発言と瓜二つでした。
 時代が下って60年代の記録も読んでみました。妊娠中絶の合法化を求めて闘っていた女性は、反対派からこんな罵声を浴びました。
「オマンコ女!」「毒蛇女め」「はりつけにしてやる!」
 世界でトップクラスの男女平等の国ノルウェーでも、こんな女性蔑視の時代があったのです。その厚い差別の壁を打ち破ったのは、変革を求める女性たちの闘いでした。「さあ、日本でもがんばって」と肩をポンと叩かれたような気がしました。
 原稿を出版社に送り、「あとがき」のゲラを点検している最中の2010年3月30日、大阪高裁の塩月秀平裁判長は、「大阪豊中市の『すてっぷ』の館長排斥行為は、『人格権侵害』であり不法行為にあたる」との判決を下しました。裁判長は、「すてっぷ」が男女平等を毛嫌いする一部勢力(市議やその支援団体)から陰湿かつ執拗な組織的攻撃にさらされていたことを認め、その勢力の攻撃に屈して館長を排斥した市と財団に、損害賠償を命じたのです。
 「説明を受け、情報を得て、協議に積極的に加わり、自らの意見を述べる、といった機会も与えられずに、職場から排除される……こんな理不尽な雇止めを、裁判官が『人格権の侵害』と認めた。ここに大きな意義があるのです」、とは、原告弁護団を引っ張った寺沢勝子弁護士の解説です。

(出典:『VOICE』第185号 2010年11月―12月号)
  編集発行 なくそう戸籍と婚外子差別・交流会
              ホームページ Email kouryu2-kai@ac.auone-net.jp

←もどる

トップへ戻る
トップページへ